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一般類型としての「健康体」像

 先日書いた話、およびとあるところに書いたブクマコメントの続きのようなもの。


 企業の就業規則や職場慣行は、フルタイム勤務(+α)を定常的に恙無く遂行する「健康体」の労働者像を基礎として構築される。それ故に、「健康体」から逸脱した労働者の状態は、あくまでも例外処理ルーチンの対象となる。この例外状態は一般的に雇用者に対して不利益をもたらすものであるため、労働者はこの例外状態を引き起こした疾病等が労働者の自由意志的判断に責を負わされる性格のものではないことを、雇用者に「証明」する必要が生じることもある。この「証明」の典型が、医療機関の発行する診断書等の類だ。
 法的・社会的に公認された医学的権威の「証明」によって、例外状態における労働者の権利は間接的に保証される。しかしこのことは、決して労働者のほうが雇用者よりも「強い」立場にいることを示しているのではない。むしろ逆に、医学的権威/権力という“外部”の助力がなければ、労働者の立場はいつでも脅かされうることの現れである。このような局面における雇用者と労働者の力の非対称性を生み出しているのは、個々の労働者がそれ自体としては「健康体」類型と全く同一のものではなく、病気もすれば怪我もする“普通の人間”であるという冷厳な事実だ。
 でも、労働者像をもっぱら一般的な類型の中で、言い換えれば「健康体」の類型の中でのみ捉える人は、この単純な事実をしばしば忘れがちになる。忘れた結果、高熱が出ても職場をギリギリの最小人数で回しているのでおちおち仕事も休めず、やっと土日になって容態悪化した状態で救急外来に運びこまれるような事態を招いたりする。
 ただし、これによって職場の状況が変わることはめったになく、明日も最小人数による仕事が続くだろう。何となれば、「健康体」こそ社会一般の諸制度(就業規則等を含む)が準拠する標準的な類型であり、法等によって然るべく定められた例外処理ルーチン以外の部分で「健康体」以外の状況に備えなければならない義務などないのだから。そんな余分な準備など、合理的な経営においては不要なコスト要因であり無駄な“バラマキ”に過ぎないのだから。
 かくして、天井知らずの労働強化の一方で、経験的にはあり得ないような“永遠の・絶対的な健康体”イデアの実現が、生きた労働者に対して規範的に要求される。一見人畜無害に見える「健康体」類型は、このような社会的な規範化のプロセスを経ることで、かえって人を殺すことがある。