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パッチワークの“事実”

 ゆうべTwitter上で話していたことや別のところで見かけた話題を敷衍しつつ、ちょっと考えをまとめてみる。実際には以前から自分自身の思考のライトモチーフとして生き続けている話題なのだけれど。


 以前、橋下大阪府知事がある刑事裁判の被告人弁護団に対する懲戒請求をテレビ番組で煽って逆に提訴され、裁判所(広島地裁)から「被告(橋下氏)の主張は弁護士の使命を理解しない失当なものである」といった、ほとんど弁護士としてのアイデンティティを全否定されるようなことを言われていたことがあった。その時に私が思ったのは、たぶんこの人は法を「体系」としてではなく、個別規範命題の単純集合に近いものとして理解しているのかもしれないな、ということだった。
 法によって描かれる世界観というのは、全体として整合的・調和的な秩序体系を目指して構築された、一種の叡知的世界の紙上シミュレーションのようなものというイメージが私の中にはあるんだけど、アドホックに立てられた諸規範を単純に積み重ねていった結果としてのみ法を捉えるなら、法律判断はもっぱら「ある行為が実定法上の規定に記載されているか否か」という、行為とテキストのマッチングの問題に収斂されることになるだろう。先に挙げた事例のような形の懲戒請求が法の文言上で直接禁止されていないのであればそれを行うこともまた自由であるという解釈は、恐らくこのような法観念からごく自然に導き出されたものではないかと私は想像している。
 でも、全体*1を説明するために想像/構想された体系によってこの世界を理解・解釈するという抽象的・理念的な考え方、あるいは“形而上的な”考え方と言ってもいいかもしれないが、そういう考え方は、慣れていないと案外と難しいようにも思う。

 ある任意の知識体系の中で取り扱われる一般的な概念は、厳密に言えばその知識体系全体を背景とした上でないと適切に取り扱うことが出来ない。しかし実際には、体系から部分的に切り取られた個別の抽象概念が単独で流通するというケースも日常的に見られる。本来であればその体系の中において意味付けられることで初めて個々の概念も意義を持ち得るにも関わらず、もともとその概念が拠って立つ基盤としての体系のほうは、このような場合なかなか省みられることがない。
 よほど必要でない限り、この世界についてごく普通の人が持つ認識は、特定の解釈体系を介在させた上で初めて意味付けられ存立するものとしてではなく、抽象的な理論理屈に拠らずそれ自体で自律的に存在している実在そのもの・事実そのものとして捉えられているものではないかと思う。このような世界の捉え方は「素朴実在論」と呼ばれたりする。
 この素朴実在論的な世界観の中に、体系から切り離された個別の抽象概念が放り込まれると、放り込まれた抽象概念もまた実在そのもの・事実そのものとして捉えられる傾向が強くなるだろう。それでも、その抽象概念が拠って立つ(しかしはっきりと認識されてはいない)背景としての体系がコミュニケーションの前提として成立している場においては、抽象概念を実体的に取り扱っても、さして問題が生じる恐れはない。問題が生じない限り、その後もその抽象概念は実体的に取り扱われ続け、やがて「これは実体なのだ」というイメージが固定されていく。

 だが、その概念を意味付けする体系が前提的に共有されないような局面に突入すると、それまで慣習的に疑う契機を持たなかったが故にその実在性・事実性が固く信じられてきた抽象概念の確実性に、綻びが生じる。
 ……いや、生じるはずなのではあるが、この綻びはしばしば否定される。何しろその概念はこの世界と同じように実在そのもの・事実そのものとしてずっと認識されてきて、これまではそれで何の問題も無かったのだから、今さらその実在性・事実性に疑いを差し挟むなどという考え方は、端的に言ってナンセンスとしか思われない。
 かくして、例えばある集合的概念を実体的に取り扱う言説について、その概念があたかも不可分の実体であるかのように一体視されていることに対する疑問を発すると、その疑問自体がまるで意味を為さないナンセンスなものであるかのように相手に捉えられる場合が生じる。相手にとってその疑問は、実在そのもの・事実そのものとしてこの世界に立ち現れている対象を疑うものであり、目の前に転がっていて手に取ることも出来る石ころや机やペットボトルの実在性を疑うのと同じように滑稽なものと感じられるだろう。

 さらに、ある概念が体系から切り離されて世界に存立している実在そのもの・事実そのものとして捉えられるところでは、その概念に意味を付与する背景的地平としての知識体系も不要と見なされることになる。その対象は無前提的に自立した存在者として、他に何のごちゃごちゃした背景説明も要らず、それ自体が生き生きとしたアクチュアルな存在としてこの世界に居場所を確保している実在そのもの・事実そのものとなるのだ。
 この対象が何らかの“もの”を指している時には、この“もの”の認識を成立させている理論的背景は捨象され、単独の“もの”だけが文脈から切り離された実在そのものとして一人歩きしていくだろう。
 この対象が何らかの“こと”であれば、“こと”の認識を成立させている背景の説明原理はやはり捨象され、“こと”は文脈から切り離された事実そのものとされるだろう。やがてこの“こと”が単独で切り離されて別の文脈に接木され、その接木によって移植された“こと”が当初の文脈に位置付けられた時の“こと”とは異なる意味付けを帯びたとしても、その相違は何等問題とされない。何故ならその“こと”は、ごちゃごちゃやかましい理論的説明とは無関係に、それ自体で自立的に存在している事実そのものであるのだから。
 そして、法体系を全体体系としてではなく、このような自立的“こと”としての法文が寄り集まったものとしてのみ捉えるならば、問題とされるのは事実そのものにも似た規範そのものとしての“こと”それ自体だけであり、その“こと”が全体の文脈においてどういう位置付けをされているのかなどは、もはや問題とされない。

 さて、このように書くとまるで私が「体系を知らずして物事を語るな、知らなきゃ口をつぐんでろ」とでも言っているかのように取られるかもしれないが、実際のところ、私の思考の根本的な立場はむしろ「体系」を批判する側だったりする。厳密に言えば、人間が世界を理解・解釈するための方法や説明原理として構築してきたはずの体系が、いつしかそれ自体としてこの世界に実存する実在そのもの・事実そのものとして立ち現れ、人間に対して「この世界観体系は事実そのものなのだからおまえは無条件にこれに従え」と命ずるような状況に対する批判の契機が、この十年弱に渡る私の思考の骨格を形作っている。
 一見するとこれは上記の考えと矛盾しているように見えるが、私が上で書いた概念の実体化を何故問題視しているかというと、この実体化がやがて極めて恣意的な基準による説明原理を事実そのものとして提示する方向に移行していくことがあるからだ(その意味では別様の「体系」批判とも言える)。

 先にちょっと触れたが、背景となる文脈や体系から切り離されて一人歩きを始めた“もの”や“こと”は、それ自体として自立的に存在する実在そのもの・事実そのものと見なされるが故に、他の文脈や体系の中に切り張りされても別に実在性や事実性が損なわれることはないということになる。そして、他の文脈の上に配された“もの”や“こと”が元の文脈にあった時とは異なるニュアンスを帯びたとしても、その“もの”や“こと”のテクスト的同一性が保たれている(=実在性や事実性が変化しない)限りにおいては何の問題もないと解されるだろう。
 それでは、こういった“もの”や“こと”をたくさん集めて、その中から自分の意に適った“もの”や“こと”を取捨選択した上でパッチワークのように組み立て、ある整合的な世界観を構築したとしよう。
 この世界観は、果たして何という名で呼ばれるだろうか?
 慎重な人であれば、せいぜい「説明原理」や「文脈」程度で留めるだろう。でも、世界観を構成している素材がもっぱら実在そのものの“もの”や事実そのものの“こと”であるからには、これもまたも素材と同様の真実性を備えた「事実」である、と解される可能性がないだろうか? 世界観の実在性・事実性を支える根拠が、文脈や説明原理の組み立て方のほうにではなく、その世界観を構築する素材としての“もの”や“こと”の側にあると認識されているなら、なおのことそういう可能性があるのではないか。
 あるいはこう言い換えることも可能かもしれない。「真」の要素命題(“もの”や“こと”)だけを集めて合成すれば、否定演算子などに相当する操作を施さない限り、合成の結果出来上がった複合命題(世界観)も必然的に「真」となる。この複合命題の真理値はもっぱら元の要素命題の真理値に依拠しているので、もしこの複合命題の真理値が「偽」であるという反証を行いたいのであれば、唯一の方法は元となっている要素命題の真理値を問題にすることしかない。もし要素命題が全て「真」であるのなら、その集合たる複合命題を「偽」とすることは最初から不可能であろう。 ──

 ……世界認識が体系や説明原理を失って個別要素としての“もの”や“こと”に還元され、かつそれらの要素が世界を事実的に構成する素材として素朴実在論的に取り扱われた時、その人の中で世界認識はどのように立ち上がるのか。上に書いたのはその図式的な一例に過ぎないが、この例によって説明がつきそうな「事実」主張を、この十年くらいの間に結構たくさん見かけてきたように思う。

*1:この「全体」は外延を区切った部分的なものであっても構わない。例えば日本国の法律は原則として「日本国内全体」に限定して適用される。