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相対という名の絶対

 読書メモ。

……もっとも哲学史なるものが控えていて、諸体系間の永久の抗争を見せつけ、事象にはすっかりできあがった概念という出来あい服はきちんとあわぬこと、寸法をとって調製せねばならぬことを教えてはいる。しかし私たちの理性はそこまでつきつめるよりはむしろ一度はっきりと、自分はこれからも相対しか知ることのないもので絶対は自分の領分に入らぬ、ということを誇りかな謙虚さで公言しておきたがる。あらかじめこんな言明があるから、理性は自分の習慣的な思考法をはばからずに適用し、絶対には触れえぬという口実のもとに万事について絶対的に言いきることができるのである。これをはじめて理論化して、事象を認識するとはイデヤをそれに見つけてやること、すなわちすでに私たちの掌中にある枠にそれをはめこむことだという考えを ── あたかも普遍学を私たちが含蓄的に所有しているかのように ── 立てたのはプラトンであった。けれどもそうした信念は、どんな新対象にぶつかってもそれを古来のどの見出しの下に記載したものかと腐心している人間的知性には自然なものであり、したがって、ある意味で私たちはみな生れながらにプラトン派であるといってよかろう。


ベルクソン『創造的進化』真方敬道訳、岩波文庫、1979年、p.74)