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ウィーンとクルスク

 第一次大戦前、ヒトラーがウィーンの画学生だった時代に描いたウィーン市街の絵を見ると、建物や街路の構図が遠近法的(幾何学的?)に極めて几帳面に描かれているのが容易に見てとれる。その一方で、人物画などはかなり類型的で、これといった特徴が見られない。建築物と人物が同じフレームの中におさまった絵を見ると、力の入れ具合が明らかに異なっている。ヒトラーはウィーン美術アカデミーの受験に落ちた時に、アカデミーの教授から「画家よりも建築家向きだ」と言われたらしいが、絵柄を見るとその意味がよくわかる。
 それから数十年後、1943年夏のクルスク攻防戦において、ドイツ軍側の作戦指揮官のマンシュタインは機動防御を主眼に置きつつ、作戦自体は可能な限り早めにスタートしたほうがいいと考えていたが、ヒトラーはようやく量産が始まった新型戦車(ティーガーパンター)のハードウェアの優位性に期待し、新戦車が十分揃うまで作戦開始時期を遅らせた。これはソ連軍側にも十分な縦深を持った対戦車陣地を充実させる準備期間を与えることにつながったが、ヒトラーは新兵器の優位性を頼みとした先制攻撃によってクルスク突出部のソ連軍を包囲撃滅することに固執していた。局地的な被害の多寡だけでいえば、クルスク戦における人的・物的犠牲はドイツ軍よりソ連軍の方が圧倒的に多かったが、実際の戦況はほぼ拮抗状態にあった上に、連合軍のシチリア上陸に対する戦力補充のためにドイツ軍はクルスク攻勢の中断を余儀なくされた。
 個別のハードウェアのスペックによって戦争全体を語ることの限界はしばしば指摘される。ヒトラーに見られるこの限界は、市街地のイメージの幾何学的な再現を几帳面に追求していたウィーン時代から、既に宿っていたようにも思う。

パッチワークの“事実”

 ゆうべTwitter上で話していたことや別のところで見かけた話題を敷衍しつつ、ちょっと考えをまとめてみる。実際には以前から自分自身の思考のライトモチーフとして生き続けている話題なのだけれど。


 以前、橋下大阪府知事がある刑事裁判の被告人弁護団に対する懲戒請求をテレビ番組で煽って逆に提訴され、裁判所(広島地裁)から「被告(橋下氏)の主張は弁護士の使命を理解しない失当なものである」といった、ほとんど弁護士としてのアイデンティティを全否定されるようなことを言われていたことがあった。その時に私が思ったのは、たぶんこの人は法を「体系」としてではなく、個別規範命題の単純集合に近いものとして理解しているのかもしれないな、ということだった。
 法によって描かれる世界観というのは、全体として整合的・調和的な秩序体系を目指して構築された、一種の叡知的世界の紙上シミュレーションのようなものというイメージが私の中にはあるんだけど、アドホックに立てられた諸規範を単純に積み重ねていった結果としてのみ法を捉えるなら、法律判断はもっぱら「ある行為が実定法上の規定に記載されているか否か」という、行為とテキストのマッチングの問題に収斂されることになるだろう。先に挙げた事例のような形の懲戒請求が法の文言上で直接禁止されていないのであればそれを行うこともまた自由であるという解釈は、恐らくこのような法観念からごく自然に導き出されたものではないかと私は想像している。
 でも、全体*1を説明するために想像/構想された体系によってこの世界を理解・解釈するという抽象的・理念的な考え方、あるいは“形而上的な”考え方と言ってもいいかもしれないが、そういう考え方は、慣れていないと案外と難しいようにも思う。

 ある任意の知識体系の中で取り扱われる一般的な概念は、厳密に言えばその知識体系全体を背景とした上でないと適切に取り扱うことが出来ない。しかし実際には、体系から部分的に切り取られた個別の抽象概念が単独で流通するというケースも日常的に見られる。本来であればその体系の中において意味付けられることで初めて個々の概念も意義を持ち得るにも関わらず、もともとその概念が拠って立つ基盤としての体系のほうは、このような場合なかなか省みられることがない。
 よほど必要でない限り、この世界についてごく普通の人が持つ認識は、特定の解釈体系を介在させた上で初めて意味付けられ存立するものとしてではなく、抽象的な理論理屈に拠らずそれ自体で自律的に存在している実在そのもの・事実そのものとして捉えられているものではないかと思う。このような世界の捉え方は「素朴実在論」と呼ばれたりする。
 この素朴実在論的な世界観の中に、体系から切り離された個別の抽象概念が放り込まれると、放り込まれた抽象概念もまた実在そのもの・事実そのものとして捉えられる傾向が強くなるだろう。それでも、その抽象概念が拠って立つ(しかしはっきりと認識されてはいない)背景としての体系がコミュニケーションの前提として成立している場においては、抽象概念を実体的に取り扱っても、さして問題が生じる恐れはない。問題が生じない限り、その後もその抽象概念は実体的に取り扱われ続け、やがて「これは実体なのだ」というイメージが固定されていく。

 だが、その概念を意味付けする体系が前提的に共有されないような局面に突入すると、それまで慣習的に疑う契機を持たなかったが故にその実在性・事実性が固く信じられてきた抽象概念の確実性に、綻びが生じる。
 ……いや、生じるはずなのではあるが、この綻びはしばしば否定される。何しろその概念はこの世界と同じように実在そのもの・事実そのものとしてずっと認識されてきて、これまではそれで何の問題も無かったのだから、今さらその実在性・事実性に疑いを差し挟むなどという考え方は、端的に言ってナンセンスとしか思われない。
 かくして、例えばある集合的概念を実体的に取り扱う言説について、その概念があたかも不可分の実体であるかのように一体視されていることに対する疑問を発すると、その疑問自体がまるで意味を為さないナンセンスなものであるかのように相手に捉えられる場合が生じる。相手にとってその疑問は、実在そのもの・事実そのものとしてこの世界に立ち現れている対象を疑うものであり、目の前に転がっていて手に取ることも出来る石ころや机やペットボトルの実在性を疑うのと同じように滑稽なものと感じられるだろう。

 さらに、ある概念が体系から切り離されて世界に存立している実在そのもの・事実そのものとして捉えられるところでは、その概念に意味を付与する背景的地平としての知識体系も不要と見なされることになる。その対象は無前提的に自立した存在者として、他に何のごちゃごちゃした背景説明も要らず、それ自体が生き生きとしたアクチュアルな存在としてこの世界に居場所を確保している実在そのもの・事実そのものとなるのだ。
 この対象が何らかの“もの”を指している時には、この“もの”の認識を成立させている理論的背景は捨象され、単独の“もの”だけが文脈から切り離された実在そのものとして一人歩きしていくだろう。
 この対象が何らかの“こと”であれば、“こと”の認識を成立させている背景の説明原理はやはり捨象され、“こと”は文脈から切り離された事実そのものとされるだろう。やがてこの“こと”が単独で切り離されて別の文脈に接木され、その接木によって移植された“こと”が当初の文脈に位置付けられた時の“こと”とは異なる意味付けを帯びたとしても、その相違は何等問題とされない。何故ならその“こと”は、ごちゃごちゃやかましい理論的説明とは無関係に、それ自体で自立的に存在している事実そのものであるのだから。
 そして、法体系を全体体系としてではなく、このような自立的“こと”としての法文が寄り集まったものとしてのみ捉えるならば、問題とされるのは事実そのものにも似た規範そのものとしての“こと”それ自体だけであり、その“こと”が全体の文脈においてどういう位置付けをされているのかなどは、もはや問題とされない。

 さて、このように書くとまるで私が「体系を知らずして物事を語るな、知らなきゃ口をつぐんでろ」とでも言っているかのように取られるかもしれないが、実際のところ、私の思考の根本的な立場はむしろ「体系」を批判する側だったりする。厳密に言えば、人間が世界を理解・解釈するための方法や説明原理として構築してきたはずの体系が、いつしかそれ自体としてこの世界に実存する実在そのもの・事実そのものとして立ち現れ、人間に対して「この世界観体系は事実そのものなのだからおまえは無条件にこれに従え」と命ずるような状況に対する批判の契機が、この十年弱に渡る私の思考の骨格を形作っている。
 一見するとこれは上記の考えと矛盾しているように見えるが、私が上で書いた概念の実体化を何故問題視しているかというと、この実体化がやがて極めて恣意的な基準による説明原理を事実そのものとして提示する方向に移行していくことがあるからだ(その意味では別様の「体系」批判とも言える)。

 先にちょっと触れたが、背景となる文脈や体系から切り離されて一人歩きを始めた“もの”や“こと”は、それ自体として自立的に存在する実在そのもの・事実そのものと見なされるが故に、他の文脈や体系の中に切り張りされても別に実在性や事実性が損なわれることはないということになる。そして、他の文脈の上に配された“もの”や“こと”が元の文脈にあった時とは異なるニュアンスを帯びたとしても、その“もの”や“こと”のテクスト的同一性が保たれている(=実在性や事実性が変化しない)限りにおいては何の問題もないと解されるだろう。
 それでは、こういった“もの”や“こと”をたくさん集めて、その中から自分の意に適った“もの”や“こと”を取捨選択した上でパッチワークのように組み立て、ある整合的な世界観を構築したとしよう。
 この世界観は、果たして何という名で呼ばれるだろうか?
 慎重な人であれば、せいぜい「説明原理」や「文脈」程度で留めるだろう。でも、世界観を構成している素材がもっぱら実在そのものの“もの”や事実そのものの“こと”であるからには、これもまたも素材と同様の真実性を備えた「事実」である、と解される可能性がないだろうか? 世界観の実在性・事実性を支える根拠が、文脈や説明原理の組み立て方のほうにではなく、その世界観を構築する素材としての“もの”や“こと”の側にあると認識されているなら、なおのことそういう可能性があるのではないか。
 あるいはこう言い換えることも可能かもしれない。「真」の要素命題(“もの”や“こと”)だけを集めて合成すれば、否定演算子などに相当する操作を施さない限り、合成の結果出来上がった複合命題(世界観)も必然的に「真」となる。この複合命題の真理値はもっぱら元の要素命題の真理値に依拠しているので、もしこの複合命題の真理値が「偽」であるという反証を行いたいのであれば、唯一の方法は元となっている要素命題の真理値を問題にすることしかない。もし要素命題が全て「真」であるのなら、その集合たる複合命題を「偽」とすることは最初から不可能であろう。 ──

 ……世界認識が体系や説明原理を失って個別要素としての“もの”や“こと”に還元され、かつそれらの要素が世界を事実的に構成する素材として素朴実在論的に取り扱われた時、その人の中で世界認識はどのように立ち上がるのか。上に書いたのはその図式的な一例に過ぎないが、この例によって説明がつきそうな「事実」主張を、この十年くらいの間に結構たくさん見かけてきたように思う。

*1:この「全体」は外延を区切った部分的なものであっても構わない。例えば日本国の法律は原則として「日本国内全体」に限定して適用される。

recognized and not confirmed

発達障害の人がいて当たり前の社会に!」とは言うけれど、元々、発達障害のある人はどこにでもいるので、「発達障害の人がいて当たり前の社会」は、既に実在しているのだ。ただ、「発達障害があることを認めている社会」が実現していないだけで…。


http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/kiroku/76296244033529.html 2003/1/31付

 何かの存在を認識することと、その存在を社会の中に位置づけることとは、必ずしもイコールではない。
 後者を自らの生活に連なる行為連関・意味連関の中に組み入れることとして捉えるなら、自分にとって好ましくない存在は“社会の連関に組み入れられない存在”として認識されることこそが、もっとも望ましい状況であるということになる。

ベルクソン『創造的進化』

 ベルクソンの『創造的進化』をもうすぐ読み終わるところです。この手の本を読むのは久しぶりなのでえらく時間がかかってしまいました。
 この本の基本的な主張のひとつは、人間の意識の発生と進歩を生物の進化における特権的なブレイクスルーとして取り上げつつ、その意識の在り様が主として無生物の物質を静的・無時間的な位相の下に取り扱うことを旨とした知性の方向に特化していること、それにより生命と進化の現象の知性的な認識・把握がしばしば現実の生命の在り様から遊離してしまうことを、批判的に指摘するところにあります。岩波文庫版では「(生命の)はずみ」と訳出されている有名なエラン・ヴィタール(élan vital)の概念も、ベルクソンにとってはあくまでも生命の進化における時間的側面を、本来そのようなものを認識できない静的・無時間的な知性において何とか把捉するための、一種の近似的概念として提起したもののようです。
 もともとベルクソンは、学位論文として書かれた処女作『時間と自由』等で、カントの感性的認識の図式における時間の取扱が、実際には時間そのものではなく時間を等質な空間的表象に置き換えたものであり、いわば無時間化された時間のみを取り扱っているとしてカントを批判しています。『創造的進化』においてこの批判的考察は、19世紀後半に生物学のみならずあらゆる学問分野に影響を及ぼした進化論を舞台として展開されています。静的・無時間的な分析を得意とする知性が、時間とともに新たな様態を次々と生成させていく時間的な生命現象を把握しようとすると、ちょうどゼノンの矢のパラドックスのように、連続的な持続・生成を非連続的な静態や静的断面の集合という様態において認識するほかなくなってしまうという方向で、ベルクソンの議論は進められています。
 本書の内容からはちょっと外れますが、変化という事象を知性において直接把握しようという試みとしては、ニュートンライプニッツが「どちらが先に発明したか」を巡って争ったことでも有名な微積分計算があります。特にライプニッツの着想は、彼のモナド論や予定調和論と切っても切り離せぬものです(モナド微分によって全体から切り取られた断面の一点、予定調和的な世界=積分によって変化する様態全体が一つの数式に集約された状態、みたいなイメージ)。でもベルクソンの主張の立場から見れば、これもまた変化する世界全体があたかも知性の認識する静的な図式として予め全て与えられているかのような表象であり、無生物の物体(例えばゼノンの矢のような)の運動を記述するならともかく、生命の進化を記述するには適さないということになるでしょう。ただしその一方で、存在の認識に関する本書の考察では、「非存在」は「存在」の認識に先行している(最初に「無」があってその上に「有」が認識される)わけではなく、あくまでも絶えざる生成そのものが認識の出発点となるといった見方が示されており、人間の認識は白紙状態(タブラ・ラサ)を原基状態としてスタートするわけではないというライプニッツジョン・ロック批判を彷彿とさせるところもあります。

 ベルクソンにとっては、生命の進化も、その進化の中で進化それ自体を認識する人間の意識も、共にエラン・ヴィタールなのであって、悟性的なカテゴリーや図式で斉一的・無時間的に“予め与えられたもの”として捉えることは出来ない、ということなのでしょう。この見方は一種の不可知論のようにも取れますが、それではいったい人間はどのようにして生命の進化を認識するのかと言うと、ベルクソンによれば、意識が知性を発達させる代償として置き去りにしてきた「直観」が切り札となります。
 このベルクソンの議論は、ニーチェなどと並んで、19世紀後半から20世紀にかけてヨーロッパで盛り上がってきた近代合理性批判の基本的な視座を提供するものであり、後にポストモダンと呼ばれる思潮の先駆ともなっています。さらには分析的知性と生命の間に位相の異なる超越的な差異があることを主張した点が、神秘主義的な思想に重大なインスピレーションを与えたという側面もあるようです。最近いろいろ話題にもなっている茂木健一郎氏の「クオリア」概念も、元を辿れば恐らくこのあたりに行き着くのではないでしょうか。*1
 こういった点で、ベルクソンの発想は確かにモダニズム批判・近代合理性批判の先駆者となっているのですが、一方では「進化」概念が「進歩 (progress) 」とほぼ同義に用いられていたり、人間の存在が生命進化の現時点における最高の到達点として捉えられている*2など、いくつかの重要な点で近代ヨーロッパのモダニズムを踏襲しています。生命は右肩上がりに無限に“進歩”していく過程にあり、人間はその最先端に位置しているのだ、という価値序列的な考え方が、本書全体において前提とされているのです。もっともこの序列は単純なピラミッド型ではなく、生命は進化の過程で様々な方向へ末広がりに分岐していき、その中でも知性によって社会を作り上げた人間と、本能(直観?)によって社会を作り上げたアリが、進化においてもっとも先に進んでいるという対照図式を、ベルクソンは提示しています。また、進化のもっとも大きな分岐として「動物/植物」の区別を上げ、植物は自ら光合成によってエネルギーを生産するが能動的な意識を持たず、動物はエネルギーの根源こそ植物に依拠してはいるが能動的な意識と運動によって環境を支配していくという、一種の上下関係にも似た図式によって動物(とりわけ人間)の意識の優位性を説明しているところもあり、それ故に意識をもたらす神経の発達こそが進化プロセスの核心にあるという見方をベルクソンは示しています。「どのように進化するか」というプロセスの説明では既存の概念的思考に縛られない自由な飛躍(エラン)を見せながら、「どの方向へ進化すべきか」あるいは「より良い進化と呼べるのはどの方向か」といった価値判断の側面においては、ベルクソンも既存の“常識”的な、人間中心主義的な価値基準をある程度踏襲していたと言えるのではないでしょうか。
 ベルクソン流の進化論哲学は、生命の現象や人間の認識を固定観念に囚われず可塑的に把握するという点で現在でもアクチュアルな意義を持っていますが、一方では既存のステレオタイプに立脚した優生思想や社会ダーウィニズム的発想をも容易に生み出し得る、取扱に注意を要する議論であるように私は思います。これはもちろん私がベルクソンより“偉い”から言えるのではなく、ベルクソンの死後に展開した20世紀の歴史における、優生思想の最悪の適用例を知っているが故の“後智慧”として言えることなのですが。

創造的進化 (岩波文庫 青 645-1)

創造的進化 (岩波文庫 青 645-1)

*1:まともに茂木氏の本を読んだことがまだ無いので、このへんの説明が実際にどうなっているのかは知りませんが。

*2:ただしあくまでも(執筆された)現時点での話であり、人間の誕生を生命進化の終局的な目的と捉える見方についてはベルクソンは明確に否定しています。

ステレオタイプ

 ステレオタイプ(stereotype、ステロタイプとも呼ばれる)とは、人間が物事を認識・判断する時に見られる心理的傾向の一種を指すもので、一言で言えば「紋切り型の先入観」「類型的な先入観」といった感じの意味になります。ウォルター・リップマンが主著『世論』(邦訳岩波文庫)で提起した概念であり、現在では社会心理学や社会との関係で個人の認識を考察する認識論において不可欠な概念装置となっています。
 単に先入観と言えば、個々人が人生経験の中で得てきた世界の見方を、未経験な物事に直面して認識し解釈する時にそのまま投影・適用するような場合全般に用いられるものですが、この先入観には自分自身の個人的な体験に基づく、他の人とは共有できない物の見方も含まれます。これに対してステレオタイプという概念は、先入観をさらに絞って、一般論として類型的に固定されているもの、特に集団の性格を表す類型的一般論を指しています。
 例えば、「(一般的に)日本人は○○だ」「(一般的に)中国人は△△だ」「(一般的に)女は◇◇だ」「(一般的に)官僚は××だ」……などといったように、Aという集団はPという性格を持っているという一般的判断が前もって持たれている状態で、集団Aに属している要素aについて、「要素aは集団Aの中に含まれているのだから、集団Aの持っている性格Pを要素aも当然に持っているに違いない」と判断し、「要素aはPという性格を持っている、何故なら集団AがPという性格を持っているからだ」と結論づけるのが、ステレオタイプ的思考の基本的な構図だと言っていいでしょう。この構図の中で、要素aの判断の根拠として使用される場合の「集団AはPという性格を持っている」という一般的判断を、「ステレオタイプ」と呼んでいるわけです。
 ただし、要素aの判断にまだ使用されていない場合には、上記の一般的判断は「一般論」であり「先入観」ですらあり得ますが、必ずしも「ステレオタイプ」とは呼べません(潜在的にそうなり得る可能性は高いですが)。ステレオタイプ概念は、その概念に基づく個別判断(要素aについての言明)が行われるよりも前に予め確定されているのではなく、個別判断が行われた後にその反省的・批判的に捉える段階で、その判断の根拠を遡ることで発見され、その発見によって再帰的に「先の個別判断の根拠は集団Aについてのステレオタイプに基づいている」という認識が生成されることになります。その意味でステレオタイプ概念は、個別判断に対しその根拠として関係する限りにおける一般的判断という、あくまでも限定的な概念であると言えます。先の例で言えば、「AはPである」(Aは集合)という命題があればAに含まれる個別要素aについても「aはPである」という命題が真とされるという、述語Pに記された属性をキーとして成立する属性判断において、「AはPである」という命題がaの属性判断に対してステレオタイプとして機能している、ということになります。