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ベルクソン『創造的進化』

 ベルクソンの『創造的進化』をもうすぐ読み終わるところです。この手の本を読むのは久しぶりなのでえらく時間がかかってしまいました。
 この本の基本的な主張のひとつは、人間の意識の発生と進歩を生物の進化における特権的なブレイクスルーとして取り上げつつ、その意識の在り様が主として無生物の物質を静的・無時間的な位相の下に取り扱うことを旨とした知性の方向に特化していること、それにより生命と進化の現象の知性的な認識・把握がしばしば現実の生命の在り様から遊離してしまうことを、批判的に指摘するところにあります。岩波文庫版では「(生命の)はずみ」と訳出されている有名なエラン・ヴィタール(élan vital)の概念も、ベルクソンにとってはあくまでも生命の進化における時間的側面を、本来そのようなものを認識できない静的・無時間的な知性において何とか把捉するための、一種の近似的概念として提起したもののようです。
 もともとベルクソンは、学位論文として書かれた処女作『時間と自由』等で、カントの感性的認識の図式における時間の取扱が、実際には時間そのものではなく時間を等質な空間的表象に置き換えたものであり、いわば無時間化された時間のみを取り扱っているとしてカントを批判しています。『創造的進化』においてこの批判的考察は、19世紀後半に生物学のみならずあらゆる学問分野に影響を及ぼした進化論を舞台として展開されています。静的・無時間的な分析を得意とする知性が、時間とともに新たな様態を次々と生成させていく時間的な生命現象を把握しようとすると、ちょうどゼノンの矢のパラドックスのように、連続的な持続・生成を非連続的な静態や静的断面の集合という様態において認識するほかなくなってしまうという方向で、ベルクソンの議論は進められています。
 本書の内容からはちょっと外れますが、変化という事象を知性において直接把握しようという試みとしては、ニュートンライプニッツが「どちらが先に発明したか」を巡って争ったことでも有名な微積分計算があります。特にライプニッツの着想は、彼のモナド論や予定調和論と切っても切り離せぬものです(モナド微分によって全体から切り取られた断面の一点、予定調和的な世界=積分によって変化する様態全体が一つの数式に集約された状態、みたいなイメージ)。でもベルクソンの主張の立場から見れば、これもまた変化する世界全体があたかも知性の認識する静的な図式として予め全て与えられているかのような表象であり、無生物の物体(例えばゼノンの矢のような)の運動を記述するならともかく、生命の進化を記述するには適さないということになるでしょう。ただしその一方で、存在の認識に関する本書の考察では、「非存在」は「存在」の認識に先行している(最初に「無」があってその上に「有」が認識される)わけではなく、あくまでも絶えざる生成そのものが認識の出発点となるといった見方が示されており、人間の認識は白紙状態(タブラ・ラサ)を原基状態としてスタートするわけではないというライプニッツジョン・ロック批判を彷彿とさせるところもあります。

 ベルクソンにとっては、生命の進化も、その進化の中で進化それ自体を認識する人間の意識も、共にエラン・ヴィタールなのであって、悟性的なカテゴリーや図式で斉一的・無時間的に“予め与えられたもの”として捉えることは出来ない、ということなのでしょう。この見方は一種の不可知論のようにも取れますが、それではいったい人間はどのようにして生命の進化を認識するのかと言うと、ベルクソンによれば、意識が知性を発達させる代償として置き去りにしてきた「直観」が切り札となります。
 このベルクソンの議論は、ニーチェなどと並んで、19世紀後半から20世紀にかけてヨーロッパで盛り上がってきた近代合理性批判の基本的な視座を提供するものであり、後にポストモダンと呼ばれる思潮の先駆ともなっています。さらには分析的知性と生命の間に位相の異なる超越的な差異があることを主張した点が、神秘主義的な思想に重大なインスピレーションを与えたという側面もあるようです。最近いろいろ話題にもなっている茂木健一郎氏の「クオリア」概念も、元を辿れば恐らくこのあたりに行き着くのではないでしょうか。*1
 こういった点で、ベルクソンの発想は確かにモダニズム批判・近代合理性批判の先駆者となっているのですが、一方では「進化」概念が「進歩 (progress) 」とほぼ同義に用いられていたり、人間の存在が生命進化の現時点における最高の到達点として捉えられている*2など、いくつかの重要な点で近代ヨーロッパのモダニズムを踏襲しています。生命は右肩上がりに無限に“進歩”していく過程にあり、人間はその最先端に位置しているのだ、という価値序列的な考え方が、本書全体において前提とされているのです。もっともこの序列は単純なピラミッド型ではなく、生命は進化の過程で様々な方向へ末広がりに分岐していき、その中でも知性によって社会を作り上げた人間と、本能(直観?)によって社会を作り上げたアリが、進化においてもっとも先に進んでいるという対照図式を、ベルクソンは提示しています。また、進化のもっとも大きな分岐として「動物/植物」の区別を上げ、植物は自ら光合成によってエネルギーを生産するが能動的な意識を持たず、動物はエネルギーの根源こそ植物に依拠してはいるが能動的な意識と運動によって環境を支配していくという、一種の上下関係にも似た図式によって動物(とりわけ人間)の意識の優位性を説明しているところもあり、それ故に意識をもたらす神経の発達こそが進化プロセスの核心にあるという見方をベルクソンは示しています。「どのように進化するか」というプロセスの説明では既存の概念的思考に縛られない自由な飛躍(エラン)を見せながら、「どの方向へ進化すべきか」あるいは「より良い進化と呼べるのはどの方向か」といった価値判断の側面においては、ベルクソンも既存の“常識”的な、人間中心主義的な価値基準をある程度踏襲していたと言えるのではないでしょうか。
 ベルクソン流の進化論哲学は、生命の現象や人間の認識を固定観念に囚われず可塑的に把握するという点で現在でもアクチュアルな意義を持っていますが、一方では既存のステレオタイプに立脚した優生思想や社会ダーウィニズム的発想をも容易に生み出し得る、取扱に注意を要する議論であるように私は思います。これはもちろん私がベルクソンより“偉い”から言えるのではなく、ベルクソンの死後に展開した20世紀の歴史における、優生思想の最悪の適用例を知っているが故の“後智慧”として言えることなのですが。

創造的進化 (岩波文庫 青 645-1)

創造的進化 (岩波文庫 青 645-1)

*1:まともに茂木氏の本を読んだことがまだ無いので、このへんの説明が実際にどうなっているのかは知りませんが。

*2:ただしあくまでも(執筆された)現時点での話であり、人間の誕生を生命進化の終局的な目的と捉える見方についてはベルクソンは明確に否定しています。