qad

ステレオタイプ

 ステレオタイプ(stereotype、ステロタイプとも呼ばれる)とは、人間が物事を認識・判断する時に見られる心理的傾向の一種を指すもので、一言で言えば「紋切り型の先入観」「類型的な先入観」といった感じの意味になります。ウォルター・リップマンが主著『世論』(邦訳岩波文庫)で提起した概念であり、現在では社会心理学や社会との関係で個人の認識を考察する認識論において不可欠な概念装置となっています。
 単に先入観と言えば、個々人が人生経験の中で得てきた世界の見方を、未経験な物事に直面して認識し解釈する時にそのまま投影・適用するような場合全般に用いられるものですが、この先入観には自分自身の個人的な体験に基づく、他の人とは共有できない物の見方も含まれます。これに対してステレオタイプという概念は、先入観をさらに絞って、一般論として類型的に固定されているもの、特に集団の性格を表す類型的一般論を指しています。
 例えば、「(一般的に)日本人は○○だ」「(一般的に)中国人は△△だ」「(一般的に)女は◇◇だ」「(一般的に)官僚は××だ」……などといったように、Aという集団はPという性格を持っているという一般的判断が前もって持たれている状態で、集団Aに属している要素aについて、「要素aは集団Aの中に含まれているのだから、集団Aの持っている性格Pを要素aも当然に持っているに違いない」と判断し、「要素aはPという性格を持っている、何故なら集団AがPという性格を持っているからだ」と結論づけるのが、ステレオタイプ的思考の基本的な構図だと言っていいでしょう。この構図の中で、要素aの判断の根拠として使用される場合の「集団AはPという性格を持っている」という一般的判断を、「ステレオタイプ」と呼んでいるわけです。
 ただし、要素aの判断にまだ使用されていない場合には、上記の一般的判断は「一般論」であり「先入観」ですらあり得ますが、必ずしも「ステレオタイプ」とは呼べません(潜在的にそうなり得る可能性は高いですが)。ステレオタイプ概念は、その概念に基づく個別判断(要素aについての言明)が行われるよりも前に予め確定されているのではなく、個別判断が行われた後にその反省的・批判的に捉える段階で、その判断の根拠を遡ることで発見され、その発見によって再帰的に「先の個別判断の根拠は集団Aについてのステレオタイプに基づいている」という認識が生成されることになります。その意味でステレオタイプ概念は、個別判断に対しその根拠として関係する限りにおける一般的判断という、あくまでも限定的な概念であると言えます。先の例で言えば、「AはPである」(Aは集合)という命題があればAに含まれる個別要素aについても「aはPである」という命題が真とされるという、述語Pに記された属性をキーとして成立する属性判断において、「AはPである」という命題がaの属性判断に対してステレオタイプとして機能している、ということになります。