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ユニバーサル・ジャパン

 ちょっと前の話題ですが。

機内持ち込み規制に困惑 12月から荷物サイズ統一(2009/11/29)


 縦、横、高さの合計が115センチ以内――。国内線の旅客機の客室に持ち込める荷物のサイズが12月から各社で統一される。バイオリンなど楽器が持ち込めなくなる音楽関係者は、楽器ケースを作り直したり、航空会社側に「例外扱い」を水面下で求めたり。一方の航空会社は「特別扱いできない」と厳格な運用をする構えだ。
(略)
 これまでは持ち込み荷物の規制は各社バラバラで、規定があっても厳格に守られず、空席状況などに応じて柔軟に対応するケースもあった。
 ところが最近、車輪のついた小型スーツケースを持ち込む客が急増。インターネットや携帯電話で搭乗手続きを終え、空港カウンターに寄らなくて済むようになったこともあり、規定外のタイプが持ち込まれることが多くなった。荷物が機内の棚に収まらず、出発が遅れるトラブルも多発。ある社では08年度、荷物のトラブルをめぐる運航の遅れが1年間で約5千件、計約316時間もあった。航空各社は「定時運航を保つためには、規制の徹底しかない」とルール変更に踏み切った。
 これまで事実上、手荷物と同様に客室に持ち込めた楽器でも、「AB券」と呼ばれる専用チケットが必要になるケースが出てくる。
 ……


http://www.asahi.com/national/update/1129/TKY200911280392.html

 これ、たぶん規定外サイズの機内持ち込みが多いというだけじゃなくて、規定内でも大きい荷物を持ち込む人が以前より増えたという事情などもありそうですね。
 例えば、もし200人だか300人だかの乗客が全員限度いっぱいのサイズの荷物を機内持ち込みしたとしたら、たぶん機内はちょっとした騒動になるでしょう。でも、誰一人として規定を外れているわけではないので、特定の誰かに対して「おまえのせいだ」と積極的に責を問うわけにもいきません。この場合の対策として、規定を変えずになんとか現場の運用の工夫でカバーし続けるか、あるいは規定のほうを変えることで全員が規定の上限まで権利を行使してもコンフリクトが発生しない(発生し難い)ようにするかの、いずれかの方法が考えられます。
 大まかに言えば、今回の手荷物規制の統一化と厳格化は後者の方策に当たることになるでしょう。もちろん実際には、全員がサイズ上限いっぱい(またはオーバーサイズ)の手荷物を持ち込むと想定して全便に適用される運行規則を定めるのはあまり現実的ではないので、平均的に何割くらいの乗客がどの程度のサイズの荷物を持ち込んでいるかといった傾向をある程度見積もって上限を決定するのでしょうが、この傾向が当初の想定を上回る形で定常的に推移する(大きなサイズの手荷物が持ち込まれるケースが当初の想定よりも増えている)なら、規定のほうをそれに合わせて変更するというのもまた一つの手です。実際に航空会社がどういう計算で手荷物サイズを決定しているのかは知りませんが、例えば定員の2割が上限サイズの手荷物を持ち込むと仮定して規定を定めたところへ、実際には平均的に定員の3割くらいの人がが上限サイズの荷物を持ち込んでいたとするならば、現場の混乱を回避する方法として、定員の3割が上限サイズを持ち込むという仮定を最初から規定の前提とする(その分一人当たりに許容される手荷物用スペースは減少する)という計算は、十分にありえるでしょう。
 だからと言って、私は記事中に現れている音楽関係者の苦情をわがままだなどというつもりはありません。「欧米の航空会社」が特定の文化的手荷物(?)に対して非明示的な例外を許容することもまた、それが他の乗客によって特に問題視されない限りにおいては、コンフリクト解決の一方法として通用するものでしょう。
 縦横高計何センチ以内などといった、数値で現されているがゆえに一見価値中立的に見える“客観的”基準も、その決定や運用に当たっては数値に現れない文化的要因が背景に働いているということがあります。少なくとも現代の日本の航空会社においては、楽器という例外を例外のまま取り扱うのではなく、楽器用の特製保護ケースを用意するなどといった形で、制度・規定の内側に収まるような形に例外のほうをを縮減することになりました。これも例外と言えば例外扱いですが、とりあえず全体の規定の枠組みに収まるように例外をコントロールしているわけで、ここでは音楽家の価値意識よりも乗客間で生じるコンフリクトの解決のほうが優先されていると言えます。逆に「欧米の航空会社」が前者を後者より優先させても大丈夫だと判断しているのは、恐らく前者に対して後者が一歩譲ることが一種の社会的コンセンサスとして容認されているという認識があるからでしょう。優先順位のつけ方に文化の違いが現れているということです。
 ただし私は基本的に文化的相対論者なので、これをもって「日本は文化的に遅れている」などというつもりは全くありません。特定のハイカルチャーを例外扱いすることを当然とする価値観より、万人に対する原則的平等の理念のほうを優先した ── とでも表現したら、また印象が変わってくるかもしれませんしね。