qad

人の記憶こそが時間

 若干の反省を込めつつ。

 人はそれぞれの時間を生きている。時計という外的指標によって変化や持続を客観的に計測することに慣れきっているとなかなかピンと来ないのだが、任意のどの二人をとっても“まったく同じ時間”を生きている人なんていない。同じ一人の人間の中ですら、デート中の一時間と退屈な授業の一時間とでは、まったく時間の流れ方が違うはずだ。
 その違いはしばしば錯覚と呼ばれるが、厳密には「時計による計測との差異」、つまり単に違っているだけだと捉えた方がいい。どちらかが絶対的な正解でどちらかが絶対的な誤謬だなんてことはない。時計の方が社会的に共有されているので、よほどのことがない限りそちらが標準の尺度・規約になっているというだけだ。

 もし、誰かと“まったく同じ時間”を生きていると心から思えるとしたら、それは二人の時間が“客観的に”一致しているからではない。それは「同じ時間を生きている“と信じられている”」、ということだ。そして後者の方が、前者よりもずっと貴重で得難い、大切なものだ。前者はせいぜいただの規約、ただの決まり事だが、後者は現にあなたと誰かによって生きられている人生そのものなのだから。
 同じ時を生きるとは、単に時間軸に沿って平行して存在するということではない。同じ時間の中で共に生きていると“信じられる”ことなのだ。


……信じられないかもしれないけど、『仮面ライダー電王』ってそういう話なんだよ? って誰に言ってるんだか。