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ランプレートの民たちよ、蘇生と復活のためのリスクの洗礼を受けよ!

 エコロジー等の文脈的には必ずしも全面的に賛成できないところもあるんだけど、とりあえずブコメにあったこの一言には「やばい、何かを言い尽くされてしまった」という気になった。

私は気持ちわかるよ 遠方に住んで恩恵を受けるだけの人にはわからない 犠牲者が他人なら「仕方ない犠牲だった、教訓にしよう」で済むもんね


http://b.hatena.ne.jp/entry/ameblo.jp/rokkasho-x/entry-10413363824.html


 その昔、『機甲界ガリアン』というロボットアニメ*1に、マーダルという面白い敵役が登場していた。
 マーダルは物語の舞台となっている惑星アーストで多数のロボット(機甲兵)軍団を統率してアースト内の諸国を征服・支配するんだけど、単なる悪役ではなく敵なりの大義を背負っているという人物だった。で、その大義が何かと言うと、「人類は戦争によってこそ進化し真に生きることが出来る、文明の名の下の停滞こそが人類にとって真の悪徳なのだ」といった感じのものだった。いま思えば何となくニーチェっぽい、いかにも“中二病”の青少年が大きくうなずいて「その通り!」と言ってしまいそうな主張で、実際に作中でもハイシャルタットという若者がマーダルに心酔し、マーダルの手足となって積極的に行動している描写がよく登場する。ちょうどニコ動にマーダルの主張のエッセンスを詰め込んだような動画が上がっているので、興味のある方はご覧になっていただきたい。

 さて、原発の話はこのマーダルの話と一見まるで関係ないような感じだけど、私はこんなことを連想したのだ。
 上記のブコメの半分以上は記事の主張を「ゼロリスク」を目指す過剰な理想論として批判し、そんなにわずかのリスクも嫌なら車にも乗るな家にも住むなと揶揄している。
 ここで「リスク」をどう見るかの違いって、実はマーダルが主人公のジョジョ(not 荒木飛呂彦)を自らの仲間に引き入れようと説得を試みた時(上記動画にも出ているけど、第20話「そびえたつ野望」の回にあったやり取り)の、マーダルとジョジョの違いにもちょっと通じるものがあるように思う。
 戦争を捨て永遠の理想世界を達成したはずのクレセント銀河・高度文明連合とその象徴的存在たる人工惑星ランプレートにおいて、人々は生きながら死んだように無気力な日々を送っており*2、かつてマーダルはそんな故郷に嫌気がさしてクレセント文明に対し反乱を起こした。反乱が失敗してランプレートを追われたマーダルは、文明の発祥の地である惑星アーストに辿り着いた後、戦争があった時代の遺物である兵器(機甲兵)を掘り出して整備し、やがて惑星ランプレートに舞い戻って再び戦乱を巻き起こそうとしていたのだ。沈滞したクレセント文明を、戦火によって再び活性化するために。

マーダル:しかし、そこで全てが止まった。無気力と沈滞だけが支配し、活力は失われた。人々は、そう、おまえの母のように、生きたまま長い眠りについたのだ。



ジョジョ



マーダル:苦痛も無く美しいままで眠り続けるのと、たとえ混乱と矛盾に苦しみながらも自由に生きるのと、おまえはどちらを選ぶ?



ジョジョ決まってる。



マーダル:余もお前と同じ考えだ。クレセント銀河に生命の力を復活させるために、余はアーストに埋もれた暗黒の力を求めた。あえて悪を為し、憎悪と暴力を楽園に放つのだ。恐ろしい混乱となるだろう。クレセント銀河は地獄に変わる。それを克服してこそ、真の楽園が生まれるのだ。



(『機甲界ガリアン』第20話「そびえたつ野望」より)

 だが、マーダルの見方にある程度の説得力を感じつつも、ジョジョは最終的にはマーダルの誘惑をはねつけ、
「わからない……わからないけど、おまえは間違っているはずなんだ!」
と叫ぶのだ。
 その決め手となったのは、マーダルの理念をさらに上書きするような理想や論理展開ではなく、マーダルの機甲兵軍団が人々を殺し諸国を蹂躙してきた経緯を、戦いの中で自ら経験してきたというジョジョ自身の体験的記憶だった。それは、クレセント銀河の文明全体を覆わんとするマーダルの理念から見れば、空間的にも時間的にもちっぽけなものであるかもしれない。マーダルの壮大な理念から見れば、大局を見ない“子供の感情論”に見えるかもしれない。

 原発のリスクをコントロールしつつ受容すべきとする人と、そもそもそのリスクは受容できないとする人の違いは、人類文明の活性化のために戦乱によるリスクは受容すべきであるとするマーダルと、そのようなリスクは受容できないとするジョジョの違いに、ちょっと似ているのではないだろうか。
 マーダルの理想は、常に「文明」や「人類」といったマクロな概念に立脚して語られており、その中で死んでいく一人一人の個人の生については、せいぜい大義のための犠牲という意味しか与えられていない。*3
 対するジョジョは反マーダル連合を統率する上で、人々からの信頼の篤かったボーダー王家の再興*4という目的を副次的に掲げてはいるが、直接にはアーストの住民にとって共通の仇敵である暴君マーダルを打倒するというのが目標であり、ジョジョの正義感はあくまでもマーダルの暴政によって具体的に生きている人々が苦しんでいるというところに立脚していた。

 事故のリスクを克服することでしか、真の楽園は生まれない。全体の幸福のためには、事故における個々の犠牲もまた避けられぬリスクとして受容しなければならない。そのような、マクロ的な未来の理想のために今のミクロ的な犠牲を正当化するという思考こそが、冒頭に引用したブコメで指摘されている、

犠牲者が他人なら「仕方ない犠牲だった、教訓にしよう」で済むもんね

という発想を生むのだろう。
 そして、「わからないけど、おまえは間違っているはずなんだ!」というジョジョの叫びと同様の、論理的な反駁はできないけれど経験的にどうしても違和感を拭い去れぬ者の叫びとしてこの反感を解釈することが出来ない人は、最初に紹介した話についても、やはり「大局的見地を欠いたゼロリスク志向の感情論」としか受け取らないんだろうな、と思う。

*1:1984〜85年放送。高橋良輔監督が代表作『装甲騎兵ボトムズ』の次に製作した作品。

*2:ランプレート人の無気力・無感動ぶりの描写は作中でも徹底されており、その不気味な有様はマーダルの主張に説得力を与える一因となっている。もちろん意図しての演出だ。

*3:ただしマーダルの場合には自分自身すらその例外としていないために、“理想の大義に殉ずる人物”の魅力が生まれている。

*4:機甲界ガリアン』の主人公であるジョジョ(ジョルディ・ボーダー)は、かつてマーダルの機甲兵団によって滅ぼされたボーダー王家の末裔だったが、本人は物語の後半になるまで自分がそういう立場の人間であることを知らされぬままにいた。