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可能無限

 人類の歴史に可能無限の観念が適用されたことで、人は造物主や最後の審判といった外在的なテロス(目的)の神の支配を脱したが、同時に無限遠の未来への到達(事実上到達不可能)を否定する根拠を失った。
 どれだけ走って疲労困憊しても、常に道は可能無限の彼方へと伸び続けており、道が続く限り「さあ未来はまだまだ先だ、もっと戦え、もっと努力しろ、もっと成長しろ」という無限の闘争への要求が出される。我々はそれを否定する術を持たない。だがその要求を出す者も、結局のところ「じゃあどこまで進めばその未来に到達するのか」という問いに対する答えは持っていないだろう。「進め」は気がついた時にはいつの間にか“常識”となっていた観念であり、しかも無限に向けて常に開かれているが故に答えなど出しようがないからだ。
 かくして無限の前進や進歩という、決して目標に到達することの無い、だがそれ故に崇高とも捉えうる観念のために、生きた人間が無限闘争の中で倒れていく。その犠牲の意味は空虚な「無限の未来」に吸い込まれてかき消される。
 この「可能無限」こそが、恐らく現代において形而上学の取り得る唯一の形態だ。可能無限の未来観は、限界設定による抑圧から人間を解放する。その代わり、限りある人間の生を無限に向けて突き進めた時には、無限の全体のための道具として有限な人間の生を消耗するという思考を正当化する。

 社会ダーウィニズムの真の深淵は、ただの排除原理ではない。決して到達できない無限の彼方に向けた人類の進歩に全体の目的を置くが故に、個々における無限の犠牲を無限に正当化できるという点にあるのだ。