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権力と責任

 どこかで読んだ喩え話のこと。
 盲目の女のところに悪ガキたちがやってくる。嫌がらせをしようとして、彼女を遠巻きにした悪ガキたちが問いかける。僕たちの手の中にいる小鳥は生きてる? それとも死んでる? さあ、当ててごらん?


 彼女はその問いに直接答えない。代わりにこう言う。
「 分からない。でも、一つだけ分かっていることがあるわ。その小鳥は、あなたたちの手の中にあるの。そう、あなたたちの手の中にあるのよ。 」


(略)表面的には彼女の返答というのは、悪ガキたちの言葉を確認するものでしかない。
「 小鳥が僕たちの手の中にある。 」
「 ええ、あなたたちの手の中にあるのね。 」
 けれどこれらの言葉は、その効力を発揮する瞬間において、実のところ全く逆のことを言っているのではなかろうか。悪ガキたちは「彼女の返答こそが小鳥の生死を決定する」のだと、つまり、「小鳥は彼女の手の中にある」と述べているのだ。
 そして彼女は、受動的な現状確認のふりをしつつ、彼らの言葉が持つ破壊力の向きを引っくり返すのだ。


In a flurry/水陸両用日記 2005/1/8

 悪ガキたちは小鳥の生死の実質的な決定権を握ったまま、それがあたかも彼女の自由な意志決定によって決定されるかのように発言しています。その言明によって、「生死を当てる」という彼女の言明があたかも実際に小鳥の生死を決定するかのような、世界のイメージを作り出します。このイメージにそのまま乗っかるなら、悪ガキたちは小鳥の生死を実際に左右するという実質的な権力の行使を保留しながら、その権力の行使に関する形式的な責任を彼女に転嫁することが出来ます。
 この見方から解釈するなら、彼女の言明は、悪ガキたちによって権力の行使とそれに伴う責任とが乖離しようとしていたところへ、その両者の関係を再びつなげ直すための遂行的発言であったとも捉えられるでしょう。