qad

ビジネス化?


 どうやらポイントは「ニセ科学批判」ではなく「ニセ科学批判を商売のタネにすること」のようです。「コミックサイエンス」という造語に拘っているのも、もしかしたら将来のマーケティング展開を見据えて、商品やサービスに関する認識の差別化の布石を最初から打っておくということなのかもしれません。従来からある「ニセ科学」等の言葉を使用すると他の批判的言説の中に埋もれて目立たなくなる可能性がありますし、また「ニセ」という“強い”言葉を使用し続けると、将来の商売敵から名誉棄損で訴えられる危険性があるという判断も一応は成り立ちそうです。学術的立場から主張の正当性を強調するならともかく、ビジネスとして成立させることを前提にするなら、正誤は別にしてこの種のリーガルリスクはなるべく最小化するのが望ましいという考え方も、まあ成立しないことはないでしょう。

ところ変われば……

 マレーシアで起きたという、ちょっと気になる話題。

「キリスト教徒「アラー」使用…イスラム教徒猛反発」(2010/1/9)


 マレーシアの裁判所が昨年末、キリスト教週刊誌に神の訳語として「アラー」の使用を認める判決を下したことに対し、多数派のイスラム教徒が反発を強めている。
(略)
 イスラム教が国教のマレーシアでは、国民の6割がイスラム教徒。政府は「アラー」の使用はイスラム教徒に限られるとして、昨年1月、カトリック系週刊誌「ヘラルド」マレー語版について、「アラー」の不使用や、キリスト教徒のみへの頒布を条件に1年間の発行を許可した。だが、キリスト教の神もマレー語で「アラー」と訳される事例もあるため、発行人の大司教が昨年2月、発行条件の解除を求めて政府を訴えた。
 裁判所は昨年12月31日、「アラー」使用について憲法の「信教の自由」規定を根拠に「イスラム教徒への布教目的では違法だが、キリスト教徒への教育目的なら合法」と判断、「イスラム教徒を惑わす」とした政府主張を退けた。だが、イスラム教徒の猛反発もあり、政府は今月4日、上訴した。
 ……


http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100109-OYT1T00974.htm

 もともとアラビア語の「アラー」は特定の神様の固有名ではなく、「God」と同じように神を表す一般的な名詞なのですが、マレー語で外来語彙として使用されているのであれば、固有名詞と同じようなニュアンスを帯びている可能性はありそうです。特にイスラムではコーラン(クルアーン)の翻訳版が正典としては無効とされているなど、アラビア語に特権的な地位が付与されているところがあるので、外来語彙の「アラー」もイスラム文脈では通常の「神」と異なるニュアンスを持っているのかもしれません。

 そもそもイスラムで神の固有名が無いのは、イスラムに複数の神がいないので識別用の固有名が端的に不要であるからなのでしょうが、キリスト教やその他の宗教との“棲み分け”が問題となるような局面においては、他の宗教セクターから明確に識別・アイデンティファイされ、かつ自らの領域内で特権的な意味を持つ独自の“神”識別語が不可避的に必要とされるのでしょう。そのような場合、従来から使用されてきたアラビア語の名称「アラー」は、イスラム内部における規範的コンセンサスがあり、また対外的にも外来語の固有名として機能しうるという点で、イスラムの神を示す事実上の固有名詞として伝統的にも実質的にももっとも適切であるとムスリムに見なされている可能性があります。
 ただ、イスラム・アラブ内部では旧約・新約聖書の神も同じように「アラー」と呼ばれていたはずであり、この点にはマレーシアのムスリムアラビア語ネイティブではないという事情(それ故に「アラー」がムスリム内でも外来語的な固有名詞としてのニュアンスを強く帯びている?)も複雑に絡んでいるのかもしれません。

 ちなみに外来語としての「アラー」が固有名詞のニュアンスを強く帯びるのは日本語でも言えることで、「アラーの神様」という重畳的な言い回しもあったりします。川内康範氏が『アラーの使者』というタイトルにどの程度の固有名詞的(または普通名詞的)ニュアンスを込めていたのかは知りませんが……

合理と非合理の間には 今日も冷たい雨が降る

 外から見た時の私の思考パターンはたぶんコウモリみたいに見えるのかもしれないな、というセルフイメージがなんとなくある。

 両足は非合理の大地をどっかり踏みしめているのに、体を思いっきり傾けて合理の領域に半身以上乗り出しているような感じ。でも、バランスを崩して合理の領域に足をつけそうになると、一瞬つま先だけ合理の大地を蹴って、また足を非合理の台地に戻す。逆にバランスを安定させようとして上体が非合理の領域の内側に収まりかかると、また上体をぐぐっと傾けて合理の領域に半身を突き入れる。

 完全に非合理の内側にいる者からはとても自分たちと言葉を通じ合わせることが出来ない無味乾燥な合理野郎に見えるだろうし、逆に合理の内側にいる者には肝心なところで論理性を拒否する支離滅裂な非合理野郎に見えるだろう。
 かくして、どっちつかずで誰の仲間にもなれないコウモリ野郎の私はバットマン、いや仮面ライダーナイト、いやむしろ街の涙を拭う二色の仮面ライダーになるしかないのだ。ってわざわざそっちを取るか俺。

テレビCM

 静止画の乱舞する昔のローカルCMをニコ動で立て続けに見ていたら、なんだか頭がトリップしてしまいました。あはは。

 考えてみれば、ネットの普及拡大で広告媒体としてのテレビの価値が下落したのって、テレビで出来ることのほとんどがネット上で出来るようになったというのが一番大きいんでしょうね。しかも広告主による情報のコントロールや随時アップデートが利くという点では、予め完成品として固定映像素材を納入しなければならず不特定多数への広告効果もよくわからないテレビより、メディアとしての使い勝手がいい(と考えられている)んでしょうし。
 静止画でもテレビCMに意義があると考えられた(今でもある程度はそう思われているでしょう)のは、誰もがアクセスするメディアとして普及しているために、動画フィルムほどの費用をかけなくてもそれなりに効果があると思われたからだろうと思います。
 そして、ネットが基本的に能動的な動作(それがただのクリックであろうと)によるアクセスを必要とする、それ故にアクセスする者の志向性によって効果が大きく左右されるメディアであることを考えれば、まったく予備知識の無い消費者に「まずは存在を知ってもらう」という情報の初期インストール(?)を行うための、全方位無指向性メディアとしてのテレビの価値は、現在でも必ずしも無くなったわけではないようにも思うのですが……ああ、それで「続きはWEBで」ってのが流行ったのか。

生活適応教育

 リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』読了。久々に骨の折れる本を読み通した気分です(文体や内容はむしろ平易ですが)。
 タイトルこそ「反知性主義(Anti-intellectualism)」となっていますが、この本は決して「反知性主義」を糾弾しようというのでもなければ、その対立概念として「知性」や「学問」を闇雲に称揚しようというものでもありません。建国以来の(またはそれ以前からの)アメリカ社会で知性や学問や教育がどのように扱われてきたか、そして知性を多少なりとも集約的に担う知識人などの側はどのような態度を見せてきたか、などといったあたりの変遷を、主に宗教・政治・職業生活・教育の四つの切り口から、歴史的に跡づけようとするものです。


 ところで、この本で最後に取り上げられている教育のテーマを読んでいる時に、ちょうどはてなブックマーク「学校で習わない大事なこと」という話題がホットエントリに上がっているのを見かけまして(ブックマークコメント)、本書で紹介されている、20世紀前半のアメリカで教育改革の目標として主唱されていた中等教育実用主義化や「生活適応運動」が、この話題とオーバーラップして見えました。

 1911年、全米教育協会の新委員会「高校および大学の調整にかんする九人委員会」が出した報告は、教育思想の革命がかなり進行したことを示している。(略)
 九人委員会はつぎのように述べる。高校に課せられているのは「良き市民たることの基礎を築き、職業の賢明な選択を助けること」である。それと同時に、学校は生徒ひとりひとりがもつユニークで独特な個性を伸ばすべきであり、このことは「共通の文化的要素をはぐくむことと同様、きわめて重要である」。こうして、学校は「その時点で少年少女がいだいている」主要な関心事を発掘するよう、強く求められた。委員会は、教養教育を職業教育に優先させるべきだという考えに疑いを提起した。「教育の有機的概念からすれば、個人の実生活のための訓練を早くから導入することが必要であり、そのあとで教養教育と職業教育を混合すればよい……」。
 また委員会は機械学、農業、そして「家政学」の役割を、全少年少女の教育における理のある要素としてとらえ、これに多大な関心をもつよう勧告した。

 大学への準備という伝統的概念のために、何万人という少年少女たちをその適性や彼らが求められている領野の勉強から引き離し、ふさわしくも、必要とされてもいない目標へと導いたのは、公立高校の責任である。排他的で学問に偏ったカリキュラムは、文化についての誤った理想を展開させる。そこから物質的な富の生産者と、その伝達者、消費者とのあいだの深い亀裂が生じてくるのである。

(ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、みすず書房、p.290-291)

 今で言えば「実学志向」とも表現できるこうした中等教育の方向性について、同協会は1918年に発行した『中等教育の主要諸原理』でガイドラインとしてまとめ、大学などの高等教育機関において完成する知的陶冶に至るまでの途中経過・一プロセスとしてのみ中等教育を捉えるのではなく、中等教育それ自体が民主主義への寄与として機能するために「りっぱな家庭人たること、天職をもつこと、市民として行動すること、この三つを主要目標とすべきである」(p.292)と提唱しました。
 さらに1940年代後半には、青少年の基礎学力の低下や中等教育からのドロップアウトを懸念する方向から「生活適応教育」が提唱されるようになります。

 生活適応運動は、「すべての若者の生活適応への要求にもっと調和した教育プログラムを開発」することで、状況を打開するよう提案するものだった。このためには「アメリカの若者すべてがみずからに満足のいく民主的な生活を送り、家庭人、労働者、市民として社会に益するうえでもっと役に立つ」教育法を考案することが重要だと考えられた。1947年5月にシカゴで開催された全国会議で、出席者はミネアポリスの産業教育機関ダンウディ研究所の所長チャールズ・A・プロッサー博士起草の決議案を採択した。この決議案の原文(略)は、中等学校はアメリカの大多数の若者の要求を十分に取り入れていないという出席者の信念を表明している。

(p.299)

 ……ある知識がすぐに使えるならば、それだけ教えるのも簡単になる。そして学校教科の価値は、身近に現実的な生活にどれだけ直接応用されうるかによって評価されるのだ。この考え方で重要なのは、生徒に一般法則化の方法を教えることではなく、日常生活に必要な情報をあたえること ── たとえば生理学ではなく、どうしたら身体の健康を維持できるかを教えることなのである。プロッサーの見方によると、伝統的カリキュラムはかつておなじように有益だったが、現在では役に立たなくなった勉強のみで構成されている(「一般にどんな教科であれ、新しければ新しいほど教室外での実用性は大きく、古ければ古いほど内容が生活の現実的要求と合わなくなる」)。学校で習った勉強を素早く直接的に生活に応用できれば、その分だけ生徒の学習意欲も学習の効果も高くなる。実際、ある科目を教えることが精神に対してどれだけの価値があるのかは、まさにその教科の有益性によって決まるのだと、プロッサーはいう。「これらのことをすべて考えれば、ビジネスのための算数は平面幾何や立体幾何に勝っている。健康を維持する方法を学ぶことは、フランス語の学習に勝っている。また職業選択の技術は代数の勉強に、日常生活における単純な科学は地質学に、簡単なビジネス英語はエリザベス朝の古典に勝っている」。……

(p.300-301)

 ただし1950年代後半には、大学等の高等教育機関への進学率そのものの増加(つまり中等教育が「最終教育」とならない)や、職業において必要な専門知識自体が複雑化したこと、そして1957年の「スプートニク・ショック」による科学技術教育への要求の拡大によって、こうしたカリキュラムの平準化・非アカデミズム化による中等教育の「実学化」の方向は下火になったようです。

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

【関連】

解釈権

 以前に『仮面ライダー剣』とタルコフスキーを絡めていろいろ書いた話から。

 これは先日タルコフスキー監督の映画『ストーカー』を観返していたので気付いたんだけど、タルさんの『ストーカー』や『惑星ソラリス』って、人間の潜在意識を読み取って何らかの形で具体化するモノが出てくるよね。『ストーカー』で言えばゾーンの奥にある“部屋”、『ソラリス』ならソラリスの海。でも、ソラリスの海は人の意識の中を勝手に読み取って強いトラウマの元になっている人物を作り出してしまうし、ゾーンの“部屋”は人間が「これが欲しい!」と意識的に願った望みを叶えるのではなく、潜在的に最も強く抱かれている想念を具体化する。主人公のストーカー仲間だった「ヤマアラシ」は、ゾーンに対して死んだ弟を返してくれと願ったのに、実際には大金が手に入ってしまった(つまり弟ではなく大金こそが潜在的に抱いていた「最も強い願い」だった)から、そんな自分の本性に絶望して自殺してしまった。


http://d.hatena.ne.jp/qad/20091026/p1

 ソラリスの海やゾーンを「内面についての解釈権を握る他者」という意味合いで捉えると、タルコフスキーが常にソ連当局の検閲に直面して四苦八苦していたらしいということと併せて、「国民の内面的属性を決定して、それにより国民の運命を左右する超越的権力」のアレゴリーであると考えることも可能になる(まあそれだけじゃないにせよ)。
 でも、このゾーン解釈から主人公のストーカーの動機を考えると、彼は結果がどうであれゾーンのもたらす救済が存在すること自体が世界にとって必要であると信じているのだから、ある意味で彼はツァーリ待望論に近い境地に位置づけられるということにもなる。はてさて。