qad

生活適応教育

 リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』読了。久々に骨の折れる本を読み通した気分です(文体や内容はむしろ平易ですが)。
 タイトルこそ「反知性主義(Anti-intellectualism)」となっていますが、この本は決して「反知性主義」を糾弾しようというのでもなければ、その対立概念として「知性」や「学問」を闇雲に称揚しようというものでもありません。建国以来の(またはそれ以前からの)アメリカ社会で知性や学問や教育がどのように扱われてきたか、そして知性を多少なりとも集約的に担う知識人などの側はどのような態度を見せてきたか、などといったあたりの変遷を、主に宗教・政治・職業生活・教育の四つの切り口から、歴史的に跡づけようとするものです。


 ところで、この本で最後に取り上げられている教育のテーマを読んでいる時に、ちょうどはてなブックマーク「学校で習わない大事なこと」という話題がホットエントリに上がっているのを見かけまして(ブックマークコメント)、本書で紹介されている、20世紀前半のアメリカで教育改革の目標として主唱されていた中等教育実用主義化や「生活適応運動」が、この話題とオーバーラップして見えました。

 1911年、全米教育協会の新委員会「高校および大学の調整にかんする九人委員会」が出した報告は、教育思想の革命がかなり進行したことを示している。(略)
 九人委員会はつぎのように述べる。高校に課せられているのは「良き市民たることの基礎を築き、職業の賢明な選択を助けること」である。それと同時に、学校は生徒ひとりひとりがもつユニークで独特な個性を伸ばすべきであり、このことは「共通の文化的要素をはぐくむことと同様、きわめて重要である」。こうして、学校は「その時点で少年少女がいだいている」主要な関心事を発掘するよう、強く求められた。委員会は、教養教育を職業教育に優先させるべきだという考えに疑いを提起した。「教育の有機的概念からすれば、個人の実生活のための訓練を早くから導入することが必要であり、そのあとで教養教育と職業教育を混合すればよい……」。
 また委員会は機械学、農業、そして「家政学」の役割を、全少年少女の教育における理のある要素としてとらえ、これに多大な関心をもつよう勧告した。

 大学への準備という伝統的概念のために、何万人という少年少女たちをその適性や彼らが求められている領野の勉強から引き離し、ふさわしくも、必要とされてもいない目標へと導いたのは、公立高校の責任である。排他的で学問に偏ったカリキュラムは、文化についての誤った理想を展開させる。そこから物質的な富の生産者と、その伝達者、消費者とのあいだの深い亀裂が生じてくるのである。

(ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、みすず書房、p.290-291)

 今で言えば「実学志向」とも表現できるこうした中等教育の方向性について、同協会は1918年に発行した『中等教育の主要諸原理』でガイドラインとしてまとめ、大学などの高等教育機関において完成する知的陶冶に至るまでの途中経過・一プロセスとしてのみ中等教育を捉えるのではなく、中等教育それ自体が民主主義への寄与として機能するために「りっぱな家庭人たること、天職をもつこと、市民として行動すること、この三つを主要目標とすべきである」(p.292)と提唱しました。
 さらに1940年代後半には、青少年の基礎学力の低下や中等教育からのドロップアウトを懸念する方向から「生活適応教育」が提唱されるようになります。

 生活適応運動は、「すべての若者の生活適応への要求にもっと調和した教育プログラムを開発」することで、状況を打開するよう提案するものだった。このためには「アメリカの若者すべてがみずからに満足のいく民主的な生活を送り、家庭人、労働者、市民として社会に益するうえでもっと役に立つ」教育法を考案することが重要だと考えられた。1947年5月にシカゴで開催された全国会議で、出席者はミネアポリスの産業教育機関ダンウディ研究所の所長チャールズ・A・プロッサー博士起草の決議案を採択した。この決議案の原文(略)は、中等学校はアメリカの大多数の若者の要求を十分に取り入れていないという出席者の信念を表明している。

(p.299)

 ……ある知識がすぐに使えるならば、それだけ教えるのも簡単になる。そして学校教科の価値は、身近に現実的な生活にどれだけ直接応用されうるかによって評価されるのだ。この考え方で重要なのは、生徒に一般法則化の方法を教えることではなく、日常生活に必要な情報をあたえること ── たとえば生理学ではなく、どうしたら身体の健康を維持できるかを教えることなのである。プロッサーの見方によると、伝統的カリキュラムはかつておなじように有益だったが、現在では役に立たなくなった勉強のみで構成されている(「一般にどんな教科であれ、新しければ新しいほど教室外での実用性は大きく、古ければ古いほど内容が生活の現実的要求と合わなくなる」)。学校で習った勉強を素早く直接的に生活に応用できれば、その分だけ生徒の学習意欲も学習の効果も高くなる。実際、ある科目を教えることが精神に対してどれだけの価値があるのかは、まさにその教科の有益性によって決まるのだと、プロッサーはいう。「これらのことをすべて考えれば、ビジネスのための算数は平面幾何や立体幾何に勝っている。健康を維持する方法を学ぶことは、フランス語の学習に勝っている。また職業選択の技術は代数の勉強に、日常生活における単純な科学は地質学に、簡単なビジネス英語はエリザベス朝の古典に勝っている」。……

(p.300-301)

 ただし1950年代後半には、大学等の高等教育機関への進学率そのものの増加(つまり中等教育が「最終教育」とならない)や、職業において必要な専門知識自体が複雑化したこと、そして1957年の「スプートニク・ショック」による科学技術教育への要求の拡大によって、こうしたカリキュラムの平準化・非アカデミズム化による中等教育の「実学化」の方向は下火になったようです。

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

【関連】