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紅白歌合戦

 Twitterの実況に参加しながら見ていたので、大変楽しい時間を過ごしておりました。
 そういえば私がTwitterをそれなりにアクティブに使い始めたのって、TBSラジオ「Life」のTwitter特集の時に実況に首を突っ込んでからなんですよね。2ちゃんねるなんかもそうですが、こういうコミュニケーション・サービスを広めるのには、「お祭り」ってやっぱり強い契機として働くのかもしれないなあ、なんてことを思ったり。

 目立って印象の強かったところをメモ。

  • 「特別審査員」の文化人枠(?)は勝間和代。なんか退屈そうでした。
  • EXILE無限増殖とかAKB72とか、全般に人海戦術が目立っていたように思います。
  • 水樹奈々が登場した時の客席声援がひときわ大きかったような。
  • 毎年ウケ狙いのネタになっている美川憲一小林幸子のハデハデ演出合戦ですが、今回は美川憲一がオードリー春日をマサラムービー風にフィーチャーした舞台演出、対する小林幸子モビルスーツメガ幸子」を投入。
  • Twitterで「こなああああああゆきいいいいいい」弾幕が大量発生。
  • マイケル追悼企画で踊っていたSMAPがいろいろ言われていますが、あれはSMAPが踊れないんじゃなくてマイケルが人間離れしてるだけだと思うのです。
  • 矢沢永吉もとうとう紅白に出るほどに“丸く”なったか……
  • 大丈夫か森光子。

 今回の紅白の公式のキャッチフレーズは「歌の力」だったようですが、実際のところは「あんまり難しいことを考えずに理屈抜きのお祭り騒ぎでいこう」というのが事実上のテーマだったのではないかと。

The Next Decade

 ちょうど十年前。当時公開していたWeb日記を読み返したら、こんなことを書いていた。

 今年の全ての仕事が終わった後の帰り道、ちょっと寄り道して、川の側を歩いてみた。
 12月も末の肌寒い時期にもかかわらず、幾人もの人々の姿が点在している。犬を散歩させている人。早足で歩き続ける初老の人々。一月も続いた雨涸れを気にして路傍の植込みに水を遣る人。
 川の水はあくまでも澱んでいる。対岸には操業中の工場が煙を上げているのも見える。それでも、水面には時折水鳥が漂い、また群れを成して飛び去っていく。
 釣りをしている人の姿もある。時々水面に跳ねた魚が水紋を作る様子も見えるが、こんなところで釣れた魚が食べられるとはとても思えない。それでもなお、というよりこんな川だからこそかも知れないが、私は人がこういう習慣をいまだに保っていることに何となく嬉しさすら覚えた。
 水面上すれすれを優雅に飛び去っていく鳥の姿を見ながら、私は、人間が鳥の自由に憧れつつ、結局は飛行機という紛い物の「夢」しか持つことを許されなかったことの意味を考える。


 この十年の間に、たぶん私は、あの頃よりずっと自由になれたんだろうと思う。ただし、もし当時の私が今の私を(内面的な部分も含めて)見たなら、果たしてその後も自由の夢を持ち続けることができたかどうか、自信はない。
 ……いや、やっぱり持ち続けただろう、と思いなおした。当時の私はあくまでも当時の世界観で物事を解釈・理解していたのであって、良くも悪くもいろいろと思考の道筋を大きく変化させた後の今の私とは、当時の私はやはり“別人”なのだから。その変化が私にとって果たして意義のあることであったのかどうかは、未だによくわからないけれど。

 振り返ってみれば、人生のいろんなものを一度きれいにリセットし、整理し、破壊して再構築するための十年だった、と思う。
 十年もの月日を費やす必要があったのかどうかはわからない。ずっと立ち止まり、佇んで時の流れが行き過ぎるのをほとんど傍観者のように眺めていた間に、逃したものや失ったものもたくさんあるだろう。後悔がまったく無かったかと言われると、自信はない。いくらかはある。
 それでもなお、世の時の流れからドロップアウトしたかのような十年が、死んだような自由の日々が、やはり私の人生には必要だったのだ、とも思う。何もかもを同時に手に入れることは出来ない。どこかの猫のように、生きることと死ぬことを同時に遂行することも出来ない*1。もしかしたらアンチテーゼや紛い物の自由という意味しか持たないのかもしれないけれど、それでも自分自身の中にそのアンチテーゼや紛い物を抱え込むというプロセスが、たぶん私にはどこかで必要だったのだろう。例えそれが、抱え込んだ後の今の私の視点から見た、十年前の私には通用しない類の価値に過ぎないのだとしても。

 この先の十年のことは、さしあたり考えない。もし十年後まで生きていても、その時には今とは違う認識の地平を持った、“別人”としての私しかいないのだから。

*1:例の猫の例えはこういう意味ではないと、何となく知ってはいるけれど。

「ゆりかご」の真意

 Wikipediaをパロディ化した冗談百科事典サイト「アンサイクロペディア」に記載されているツィオルコフスキーの説明は、冗談にしては結構真面目な内容になっている。

……ロシア帝国は財政等で逼迫しており、彼の理論に注目を寄せることはなかった。ツィオルコフスキーはその原因の一つは、多くの人に「宇宙へ行く」という願望がまだ植えつけられていないからだと見ており、そのため人類が宇宙空間に出ることをまるで必然であるかのごとく錯覚させるような、キャッチコピーを広める必要があるのではないかと考えるようになった。そして生まれたのが以下の二つのコピーである。


  • 地球は人類のゆりかごだが、ゆりかごに人類がとどまり続けることはないだろう
  • 今日の不可能は、明日は可能になる



このうち前者は特に重要で、「地球という母親から独り立ちしてこそ、初めて人類は生物的に一人前ではないか」と人々(主に科学者)に錯覚させることに成功した。実際には別に地球上の生物が地球から外へ出て行く必要性などないのだが、この言葉に惑わされた人々は宇宙開発に陶酔するようになっていった。


アンサイクロペディア「コンスタンチン・E・ツィオルコフスキー」の項

 19世紀後半から20世紀前半にかけて、帝政ロシアの近代化・工業化からロシア革命を経てソビエト体制が確立するまでの時代を生きてきたツィオルコフスキーは、当時のロシアの時代精神を自らの思索に強く刻みつけ、近代的・合理的な科学技術志向と有機論哲学とが神秘主義的な形で結合した宇宙観・文明観を終世抱き続けていた。だが現在ツィオルコフスキーは、合理的な科学技術の視点から現実的な宇宙ロケットの基礎理論を確立した「宇宙ロケットの父」「宇宙開発の父」として広く知られている一方で、上記のような「地球から人類が自立する」という気宇壮大なビジョンのそもそもの源泉となった神秘主義的な宇宙観については、あまり語られることがない。
 ツィオルコフスキーは自らを厳格な唯物論者だとしており、それはそれで決して誤りではないのだが、彼の宇宙観においては、様々な物質(厳密にはその構成単位たる原子)が互いに密接な連関を持ちながら永遠の合従連衡を繰り返す“生きた全体性”として宇宙が捉えられており、生命はその中で原子同士が特殊な結合を行って人間という理性を生み出すことにその意義を持つ。ただし、個々の生命の意義は基本的に大した問題ではなく、脳を形作る原子の永遠性によって既にこの宇宙で永遠の生命を得ているとされる。
 人間が宇宙に飛躍すべきであると彼が考えるのは、この理性が無限に拡張していくというビジョンに由来する。

 わたしたちはまた、生命が最高に発達したのは地球だと考えがちである。だが、地球上の動物と人間が生まれたのは比較的新しく、それはいま発達段階にある。太陽は生命の源として今後まだ数兆年は存在し、人間はこの想像もできないような期間に前進し、肉体、知性、道徳、認識、技術力を進歩させていかなければならない。その先に待っているのは輝かしい、想像もできないようなものである。数十億年が過ぎたとき、地球上には現在の植物や動物や人間のように不完全なものはなにもないだろう。よいものだけが残るのだ。理性とその力がわたしたちをそこへ不可避的に導いていく。……


ツィオルコフスキー「宇宙哲学」、S・セミョーノヴァ、A・ガーチェヴァ編著『ロシアの宇宙精神』西中村浩訳、せりか書房、1997年、p.284)

 唯物論有機体哲学の結合によって構想される千年王国のビジョンとでも言おうか。「ゆりかごに人類がとどまり続けることはない」とは、単純にボストークソユーズやアポロで宇宙に飛び出すというだけの意味ではなく、人間は狭い地球にとどまることなく太陽系や他の銀河に植民して無限に拡張し続けることによりいくらでも無限に進歩し続けるという、彼の進化論的な確信を指しているのだ。

11年前

 NTT DoCoMoの「iモード」の発表会へ行った。すごい人出。知り合いにもたくさんあった(笑)。先週会った人や,数年ぶりにあった人など多彩。みんな広末を見たかったんだろうか? 残念(?)だが,撮影会は参加せずに帰社。


 iモードについては,批判的な人もいるようだ。稚拙な開始ではないか,とかくってかかっている人もいた。だが,こういったサービスというのは,作った方が思いもかけないような使われ方をするものだ。個人的には,時刻表検索ソフトが楽しみだ。PCを使ってもできるわけだが,その場で即座に調べたい時などは便利だろう。他にも楽しみなサービスがいろいろ出てくるといいのだが。まあ,「ポケットボード」が売れるのをまったく予測できなかった私なので,売れるか売れないかの判断はまったくあてにはならないのだが。


携帯電脳日記 1999/1/25

 当然のことながら当時はまだGoogle様もブログもモバゲーもmixiTwitterもなかったわけで、ケータイ経由でのWebサービス利用の、その後十年の歩みを見通せていた人は、たぶんこの時点ではあんまりいなかったかもしれません(この頃のモバイル利用はまだPDAやパームトップPCのほうに未来が賭けられていたはず)。

終末CM

 コピー機メーカーとして有名な三田工業(現・京セラミタ)は80年代に、阿川泰子が登場する妙に終末的なイメージのシリーズCMを打ち出して話題になったことがあります。


 コンセプトとしては新しい物の誕生や変化を強調するものだったようですが、むしろ変化するための代償として失われる古いものの崩壊の方が、見る側に強いインパクトを与える結果となっています。たぶん阿川ソングとの相乗効果で余計にその印象が強まったのでしょう。

吹き替えか字幕か

正当な理由があっても、それに出来ばえが良くても、吹き替えではオリジナルに含まれる芸術的な部分を損なってしまうます。吹き替え業者によって手が加わったものは、もはやオリジナルと同一のものとは呼べないし、日本の視聴者が楽しんでいるものとは別物なのだと言えます。
米国での配給にあたって元の芸術性を尊重する唯一の方法は、元のフィルムにあるものをいっさい取り除くことなくそのまま観客に提供することです。事実、『イノセンス』の公開にあたってドリームワークス社の外国語映画部門であるゴーフィッシュ・ピクチャーズ社はそうしてくれました。


北米版『イノセンス』のDVDが吹き替えされない理由は

……吹き替えが作品の改竄であることを指摘しながら、「字幕もまた映像の改竄であり、かつ映像への意識の集中を妨げる要素である」ことを完全に見落としています。そして仮に映像を傷ものにしない形で字幕をつける方法があったとしても、それが作品に手を加えないということにはなりません。字幕のつけること自体が、鑑賞者に母国語というフィルターをあてがう行為、つまり作品に手を加える行為になっているからです。それに、字幕を見ている間はどうしても映像をじっくり見ることはできません。仕方のないこととはいえ、字幕の存在が作品鑑賞の軽度の妨げになっていることも指摘しなければいけません。


かざみあきらの雑記 2004/12/15>)

 字幕にせよ吹き替えにせよ、翻訳と言うのは何らかの形で物語中の言葉を“再解釈”するものであり、その時点で元のテキストと既に同一物ではなくなっているというところがあります。
 例えば、ドラマや映画の台詞には、しばしば製作された国や地域において常識・共通認識とされている文化的な文脈を踏まえた言い回しが登場するので、こうしたものを異なった文化的背景をもつ観客が、ネイティブの観客とまったく同じように理解することはまず不可能でしょう。ネット上でよく“誤訳”を揶揄される戸田奈津子の字幕訳文には、一見まったく異なった表現を通して結果的にネイティブの観客が受容するのと近似的なニュアンスをなるべく再現しようと工夫した結果であるケースが、結構あるように思います(それが成功しているか否かは別として)。しかもそれを字幕という強い制約条件の下で、かつ不特定多数の観客に可能な限り広く伝わるようにしようとしているのですから、誰がやっても戸田訳と同じような限界は避けられないでしょう。
 吹き替えにしても字幕にしても、その“再解釈”手段を通して元テキストから失われる要素はそれぞれにあるもので、どちらを取るべきかは人により異なるとしか言えないように思います。