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The Next Decade

 ちょうど十年前。当時公開していたWeb日記を読み返したら、こんなことを書いていた。

 今年の全ての仕事が終わった後の帰り道、ちょっと寄り道して、川の側を歩いてみた。
 12月も末の肌寒い時期にもかかわらず、幾人もの人々の姿が点在している。犬を散歩させている人。早足で歩き続ける初老の人々。一月も続いた雨涸れを気にして路傍の植込みに水を遣る人。
 川の水はあくまでも澱んでいる。対岸には操業中の工場が煙を上げているのも見える。それでも、水面には時折水鳥が漂い、また群れを成して飛び去っていく。
 釣りをしている人の姿もある。時々水面に跳ねた魚が水紋を作る様子も見えるが、こんなところで釣れた魚が食べられるとはとても思えない。それでもなお、というよりこんな川だからこそかも知れないが、私は人がこういう習慣をいまだに保っていることに何となく嬉しさすら覚えた。
 水面上すれすれを優雅に飛び去っていく鳥の姿を見ながら、私は、人間が鳥の自由に憧れつつ、結局は飛行機という紛い物の「夢」しか持つことを許されなかったことの意味を考える。


 この十年の間に、たぶん私は、あの頃よりずっと自由になれたんだろうと思う。ただし、もし当時の私が今の私を(内面的な部分も含めて)見たなら、果たしてその後も自由の夢を持ち続けることができたかどうか、自信はない。
 ……いや、やっぱり持ち続けただろう、と思いなおした。当時の私はあくまでも当時の世界観で物事を解釈・理解していたのであって、良くも悪くもいろいろと思考の道筋を大きく変化させた後の今の私とは、当時の私はやはり“別人”なのだから。その変化が私にとって果たして意義のあることであったのかどうかは、未だによくわからないけれど。

 振り返ってみれば、人生のいろんなものを一度きれいにリセットし、整理し、破壊して再構築するための十年だった、と思う。
 十年もの月日を費やす必要があったのかどうかはわからない。ずっと立ち止まり、佇んで時の流れが行き過ぎるのをほとんど傍観者のように眺めていた間に、逃したものや失ったものもたくさんあるだろう。後悔がまったく無かったかと言われると、自信はない。いくらかはある。
 それでもなお、世の時の流れからドロップアウトしたかのような十年が、死んだような自由の日々が、やはり私の人生には必要だったのだ、とも思う。何もかもを同時に手に入れることは出来ない。どこかの猫のように、生きることと死ぬことを同時に遂行することも出来ない*1。もしかしたらアンチテーゼや紛い物の自由という意味しか持たないのかもしれないけれど、それでも自分自身の中にそのアンチテーゼや紛い物を抱え込むというプロセスが、たぶん私にはどこかで必要だったのだろう。例えそれが、抱え込んだ後の今の私の視点から見た、十年前の私には通用しない類の価値に過ぎないのだとしても。

 この先の十年のことは、さしあたり考えない。もし十年後まで生きていても、その時には今とは違う認識の地平を持った、“別人”としての私しかいないのだから。

*1:例の猫の例えはこういう意味ではないと、何となく知ってはいるけれど。