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吹き替えか字幕か

正当な理由があっても、それに出来ばえが良くても、吹き替えではオリジナルに含まれる芸術的な部分を損なってしまうます。吹き替え業者によって手が加わったものは、もはやオリジナルと同一のものとは呼べないし、日本の視聴者が楽しんでいるものとは別物なのだと言えます。
米国での配給にあたって元の芸術性を尊重する唯一の方法は、元のフィルムにあるものをいっさい取り除くことなくそのまま観客に提供することです。事実、『イノセンス』の公開にあたってドリームワークス社の外国語映画部門であるゴーフィッシュ・ピクチャーズ社はそうしてくれました。


北米版『イノセンス』のDVDが吹き替えされない理由は

……吹き替えが作品の改竄であることを指摘しながら、「字幕もまた映像の改竄であり、かつ映像への意識の集中を妨げる要素である」ことを完全に見落としています。そして仮に映像を傷ものにしない形で字幕をつける方法があったとしても、それが作品に手を加えないということにはなりません。字幕のつけること自体が、鑑賞者に母国語というフィルターをあてがう行為、つまり作品に手を加える行為になっているからです。それに、字幕を見ている間はどうしても映像をじっくり見ることはできません。仕方のないこととはいえ、字幕の存在が作品鑑賞の軽度の妨げになっていることも指摘しなければいけません。


かざみあきらの雑記 2004/12/15>)

 字幕にせよ吹き替えにせよ、翻訳と言うのは何らかの形で物語中の言葉を“再解釈”するものであり、その時点で元のテキストと既に同一物ではなくなっているというところがあります。
 例えば、ドラマや映画の台詞には、しばしば製作された国や地域において常識・共通認識とされている文化的な文脈を踏まえた言い回しが登場するので、こうしたものを異なった文化的背景をもつ観客が、ネイティブの観客とまったく同じように理解することはまず不可能でしょう。ネット上でよく“誤訳”を揶揄される戸田奈津子の字幕訳文には、一見まったく異なった表現を通して結果的にネイティブの観客が受容するのと近似的なニュアンスをなるべく再現しようと工夫した結果であるケースが、結構あるように思います(それが成功しているか否かは別として)。しかもそれを字幕という強い制約条件の下で、かつ不特定多数の観客に可能な限り広く伝わるようにしようとしているのですから、誰がやっても戸田訳と同じような限界は避けられないでしょう。
 吹き替えにしても字幕にしても、その“再解釈”手段を通して元テキストから失われる要素はそれぞれにあるもので、どちらを取るべきかは人により異なるとしか言えないように思います。