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Nothing last forever

タイムカプセル年賀状というのが届いた。16年も前に書かれたものである。こんなのがあったんだね。あるグループの仲間のひとりからで、「みんなとの関係はどうなっているのでしょうね」と書かれてあった。あの頃の仲間で今も続いている人は何人かいる。でも、もう会わない(というより会いたくもないや)という奴も何人かいる。
「もう一度会いたいけど、会うことはないんだろうな」と思っているのがいい状態の奴も何人かいる。難しいものだ。


DOLPHIN HOTEL 読書日記 2001年1月

 人は変わっていく。もちろん、変化を認識する自分自身も。

 一番書いていたときには、ひと月に4回の更新をしていました。それは、リズムのようなもので、当時の僕にとって必要なことでした。なんというのかな、自分のアイデンティティを消しているような日常の中にいたように思います。だからこそ、何らかの書く場所が必要だった、というのが一番近いような気がします。……
(略)
 東京を去り、実家で暮らすようになり、当然のように生活は変わりました。良かったのか、悪かったのではなく、その事実があります。たぶん、読書夜話の僕にとっての必要性というのは、少しずつ、変わっているように思うのです。当時の僕と、今の僕の、日常というものは違います。単純に言えば、そんなことが、ひとつの理由なのだと思います。
 今、本の整理をしています。わかりやすく言うと、処分しています。読まない本を抱えていても仕方が無い、そんな風に考えるようになってきました。良いことか、悪いことか、それもわからないです。でも、誰しも、こんな時があるのかもしれません。とことん、本を減らし、何が残るのか、そんなことを確認することも必要なのかなと思ったりもしています。


DOLPHIN HOTEL 読書夜話2006年9月

 先日は同一性要求に対する違和感云々という話を書いたけれど、実際のところ、不変の何ものかが存在すべきであるという理念にいちばん強くこだわっていたのは、他ならぬ自分なのかもしれないという思いもある。変わらぬ何ものかというより、自分と同じ時間を歩んでくれる何ものかとでも言ったほうがいいだろうか。でも、その可能性を自分自身の手で叩き潰してしまった以上、それはもう自分の選んだものとして引き受けるしかなかったのだ。
 だが、この十年近く、柄にもない本を大量に抱え込んだりして思考の格闘を続けていたのは、その選択の“意味”を納得させるための空しい試みであったのだろうと思う。人生の中でただ一つ心から望むべき何ものかを自分の意志で破却した、その一瞬の拳の“意味”を知りたいがために。
 その間に世界が不可避的に変化していくのを、私はただ傍観者の如く見ていたような気がする。肉体的には確実に老いつつも、精神はあの頃のまま時間を止めてしまったかのように同じ場所に佇みながら、時の流れが自分の横を通り過ぎ去っていくのを眺めている。


 いつか私も、部屋に積まれた本をとことん処分して、時を止めていた自分の中に何が残ったのかを清算する気になるのだろうか。


(実投稿日:2009年11月29日)