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宿命


 プロジェクト単位の応用研究と比べた場合、基礎研究の評価の悩ましいところは、明確な受益者というものがまったく画定できないということなのでしょう。
「で、その研究によって我々にどういう利益があるのかね?」
という問いに対して、はっきりと答えが返せないわけです。この場合の利益は必ずしも金銭的なものだけを指すわけではありませんが(でも最近はそういう側面が強調されることが多そう)、基礎研究によって得られた知見は文字通りあらゆる応用研究に利用されることが前提となるため(そういう普遍性があるからこその基礎研究なわけですし)、もしかしたら実際の“受益者”は他国の他企業のプロジェクトになる可能性もあります。内田樹さんあたりならこういった性格を「雪かき仕事」とか「コスト−ベネフィット・モデルにそぐわない行為」とでも表現しそうですが、基礎研究は投資に対してその成果を投資者が直接回収することがなかなかできない性格のものなのでしょう。
 その意味で基礎研究というのは、科学の集団的・社会的特徴がもっともよく現れる分野であるとも言えます。科学的知見は特定少数の受益者に対してだけでなく、広く不特定多数に開かれた普遍性を目標として探求されるものであり、それだけに得られた知識は万人にとって等しく通用するものであるため、その研究者以外の不特定多数の誰かが、研究の成果の利用から利益を得ることを排除できません。もちろんそれだけでは社会的な不公正が発生するという認識から、特許制度などが次第に整備されてきたという経緯もありますが、基礎研究は原則として万人に開かれていることが旨となっているため、研究に投資したのが特定少数であってもそこからの見返り(研究成果)を受ける受益対象は不特定多数に拡散するという宿命を背負っています。