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失われた「力くらべ」

 最近、寝しなにサン=テグジュペリの『人間の土地』を読んでいるので、ついでにちょっと関連の話題を拾ってみます。

大地はわれわれ人間について、万巻の書物より多くのことを教えてくれる。
大地はわれわれに抵抗するからである。
障害と力くらべをするとき、人間はおのれを発見する。

再び、サン=テグジュペリで恐縮ですが、『人間の大地』の冒頭の一節です。
(略)
当時、飛行機といえば科学の最先端を走る技術の粋を集めたものでした。
しかし、その最高峰の技術を操るパイロットは、しっかりと人間が生活する大地を見つめていたのです。
(略)
自由に空を飛びまわりながらも、同時にしっかりと人間が暮らす大地に根づいていたと言って過言でないかもしれませんね。


それだけではありません。
当時のパイロットたちは、荒々しい自然の厳しさともしっかりと向き合っていました。
サン=テグジュペリの作品のなかにも何度も紹介されているように、
当時の飛行はまさに自然の猛威と闘いであり、何人ものパイロットが帰らぬ人となりました。
(略)
星の王子さま』のような真に優しい物語を紡ぐ目は、荒々しい自然と戦う厳しい目から生み出されていたのです。


サン=テグジュペリの優しい目 ─ after 911 2005/12/11

 戦間期ヨーロッパの郵便飛行や競速機の世界には、まだジェットエンジンもフライ・バイ・ワイヤもCRTディスプレイもGPSもなく、計器飛行のための航法施設が整備されているわけでもなく、現在に比べて技術的には素朴であるが故に、パイロットが自分で自分の機体の面倒を見る余地が今日よりも多く残されていました。
 上記記事で「優しい目」と表現されているものは、自然に対する畏怖だけでなく、その自然に対峙するのが他ならぬ自分自身の力であるという実感とも関連しているのではないかと思います。
 一人や少人数では到底手に負えない高度なテクノロジーの複雑怪奇な組み合わせによって自然を征服し、生活の利便性を飛躍的に発達させた巨大技術の時代には、かえって個々の人間が巨大な自然と直接対峙する意識は希薄になり、分業によって極めて狭い範囲に区切られた“仕事”だけをこなすことが、人々の社会的な意義となります。抵抗する「大地」の「障害と力くらべを」しようとしても、その力くらべは現在ではただ一人(整備士を含めてもごく少数)で虚空に挑む郵便飛行士とは異なって無数の人々の分業によって行われるため(そのほうが“安全”でありまた“効率的”でもあります)、「闘い」というよりもむしろ「作業プロセス」と言ったほうが相応しいようでもあります。