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ライダーバトル

龍騎』の話。

……仕組まれたゼロサムゲームの中で無意味に死ぬ人間、恐らく視聴者は真司を鎮魂しただろう。そういう鎮魂に価する中心点として城戸真司はいた。俺も城戸真司がなぜか忘れられないでいる。あんなに惨めに、むごたらしく、しかも無意味に死んだ主人公ライダーはいなかった。恐らく、この行き当たりばったりの脚本は、この無意味な死に偶然たどり着いてしまった。その後鏡の世界にユイは消え、全ては巻き戻される。兄と妹は鏡の世界へ自閉し、バトルは無かったことになる。激しい戦いも、友情の記憶もない真司とレンがお互いへの反感を育てつつある世界へ、巻き戻したのはユイだった。……


城戸真司考 ─ 萬の季節 2009/11/16

 先日読んだこの文章をちょっと連想しました。

君のいなくなった世界が始まり、当たり前のような毎日が繰り返されるようになった。
(略)
結局、君が生きていたということは、何だったのだろうと思うよ。

でも、シンプルに考えると、君とは、君が生まれた世界と、君が生まれなかった世界の差なのだろうと思うようになった。あたりまえといえば、あたりまえなのだろうけど。

そう考えると、僕にできる唯一のことは、その差を大切にすること。例えば、僕が岐路に立ったとき、「君なら何というか」を心のどこかで影響させつづけることで、君が生きていたことによる「差」を大事にしていこうと思う。


君が生きていたということ ─ 愛の日記 @ ボストン 2009/10/17

 何度も繰り返されたライダーバトルが、“あの一年”を最後にもはや繰り返されることが無くなったということ。『龍騎』の作品世界では、それがもっとも重要だったんだろうと思います。
 下の引用文の表現を借りるなら、“あの一年の城戸真司”がいた世界(それを最後にライダーバトルが終わった世界)と、“あの一年の城戸真司“がいなかった世界(またライダーバトルが繰り返される世界)の差こそが、城戸真司の存在の意味だったのではないでしょうか。前者の延長線上に「最初からバトルが無かった世界」が生まれたとしても、それは決して前者が端的に無意味だったということではなく、むしろ前者を前提とした上で初めて「バトルの無い世界」が成立したというところにポイントがあるんだろうと思います。
 その点で、作中での真司の存在意義は劇場版『カブト』の天道総司にちょっと近いかな、という気もします。劇場版の天道は地球規模の大災厄を渋谷隕石程度の規模に押しとどめたことで消滅してしまいますが、消滅したからと言って劇場版天道の作中での存在意義が無くなるわけではなく、むしろ彼が存在したことを前提とした上で「渋谷隕石程度の被害で収まった世界」が成立しているわけです。


 ただし、真司がそのような役回りに立つことになるまでには、多分に偶然や運が作用したところもあったでしょう。これまでに無数のライダーバトルで無数のライダーが繰り返し“無意味に”死んでいったし、その中にはきっと(“あの一年”じゃない)別のパラレル真司だっていたでしょう。真司の歩んだ道は決してバトルを止めるための確実な定式などではありません。
 そういう意味で、真司は作中で決して「正しい解決策」を象徴しているわけではなく、むしろ、止めるためには彼のような(そして蓮を始めその他大勢のライダーたちのような)犠牲を生み出さざるを得ない、ライダーバトルの存在そのものに対する懐疑的視点を強調するための存在であったように思います。例え“純粋な願い”同士のバトルが止むを得ない不可避の運命に見えたとしても、「自然の摂理」にすら見えたとしても、それでもなお不可避の運命を懐疑するだけの視座を獲得するための契機。それが、城戸真司という人物の生きた“あの一年”の意義だったのではないでしょうか。

仮面ライダークウガで五代実が「四号なんていなくて済むような世界がいい世界なのよ」と子供に教えていた。
究極の事態を収拾するのは力しかない。それは誰かが担うことになる。
別に深い思想ではない。こんなことを考えないで済むような世界を作るほうが余程世の中に貢献することになるだろう。


究極の事態 ─ 萬の季節 2009/10/18

 たぶん『龍騎』もこれと同じように、ライダーたちが次々と無意味に死んでいったり、笑顔を守ることを背負った誰かが仮面の下で涙を流しながら誰かを殴らなければならないような“状況”そのものに対する異議申し立てが、主眼にあったのではないかと思います。
 それに、“状況”に対する批判は、必ずしもその“状況”の中に生きた人々の存在意義の端的な否定を必然的に帰結するわけではありません。「四号がいなくて済む世界が一番いい」という価値判断は、四号として戦った五代雄介を否定しなくても成立します。視聴者が真司に感銘を受けて彼を鎮魂することと、真司にそのような凄惨かつ道化的な戦いをさせた状況に対して疑義を抱くこともまた、同じように両立するのではないでしょうか。