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自動筆記

神林長平は「言葉の自走性」と呼んでいたけど、文書は自己組織化しがちなので頭をつかわずに文を書くと、なめらかにまとまった文書になる。「俺こんな事考えてたんだ」とか自分の文を見て発見するヤツは単に自走性に敗北してるだけ。
自走した言葉はだいたい、どっかで読んだ言葉が妥当な結論に向けてつなぎ合わされているので、一見すごく固いものにみえる。だから発注と違っていたり物語の中心軸とずれていてもそうだと気づきにくいし、取り辛いものになるのでものすごく厄介。


言葉の自走性 ─ スタヂオ世界機械 neuron note 2009/10/27

 シュルレアリスム運動の一環にあった「自動筆記(自動記述)」をちょっと連想した。

第一次世界大戦後、フランスの詩人でダダイストでもあったアンドレ・ブルトンは、ダダと決別して精神分析などを取り入れ、新たな芸術運動を展開しようとした。彼は1924年、「シュルレアリスム宣言」の起草によってシュルレアリスム(超現実主義)を創始したが、彼が宣言前後から行っていた詩作の実験がオートマティスム(自動記述)と呼ばれている。
これは眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験などだった。半ば眠って意識の朦朧とした状態や、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の中で、美意識や倫理といったような意識が邪魔をしない意外な文章が出来上がった。無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分達の過ごす現実の裏側や内側にあると定義されたより過剰な現実・「超現実」が表現でき、自分達の現実も見直すことができるというものだった。


Wikipedia「オートマティスム」の項

 素人考えだけど、こういう自動筆記というのは言語外の無意識よりも、むしろ言語の慣例的な用法や単語間のごく単純素朴な連想関係のほうを如実に反映しやすく、慣例的な言葉に流されていくという点で「超現実」ではなく「内面化された外的現実(言語的論理を含む)の反映」の表出という側面の方が強いのではないか、という気がしている。シュルレアリスムの主な動因のひとつが近代合理性の人間支配に対するアンチテーゼであることを考えれば、いったん内面化というプロセスを経て言語が予測不可能な接続を始めただけでも十分なのかもしれないけれど。