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No way to escape

華僑の人々は、戦争や政治クーデターなどで一夜にして全てを失うリスクというものと何世代にもわたり向き合ってきたために、リスクをヘッジする感覚や生き方が身に付いている。私の知り合いの華僑中国人は、息子や娘を、米国、日本、ヨーロッパといった世界各地に留学させている。ひとたびどこかの地域で致命的な事態が勃発しても、他の地域の兄弟がその危機から家族を助け出すことができるからだ。ようするに、リスクをゼロにすることではなく、リスクが存在することを認めた上で、そのリスクをヘッジすることを彼等は考えている。
(略)
食糧危機という巨大なリスクがあるから、食品の安全性のリスクには目をつぶってもいいなどと言うつもりはない。リスクをゼロにすることに血道をあげるより、リスクをヘッジすることに知恵を使う方が余程賢いといいたいだけだ。


花王エコナのトクホ失効の波紋と「リスクゼロ」という神話 ─ カトラー:katolerのマーケティング言論 2009/11/19

 ゼロリスクという発想については、先ほど世間を騒がせた事件を巡る一報道を見た時にもちょっと連想したことがある。

 恐らくそのような会社と付き合いがあるということ自体が、風評被害などで社会的なリスク要因に転じてしまうという判断なのだろう。


 この手の話題を見かけるたびに思うことなんだけど、もしかしてリスクそのものの極小化を目指すしかないというゼロリスク志向の意識は、リスクを選択肢やライフスタイルの多様化・拡散によってヘッジするという選択肢が、現実的な方策としては最初から念頭に浮かばないからこそ生じているのではないかという気がしている。
 上記記事で示されている華僑の例では、家族という曖昧だけど柔軟性の高い人間関係がリスク拡散のためのネットワークとして機能しているわけだけど、そのような柔軟性の高い人的ネットワークに対する信頼感が持たれておらず、商品に記載されている安全性表示などと言った“客観的”でソリッドなデータに自己の生存と健康を頼るしかないような生活環境や人間関係の下で生活している場合には、まさにそのデータの記載こそが唯一の生命線となるので、対象そのもののリスクの極限こそがリスクコントロールのアルファでありオメガであるということになる。
 言い換えれば、リスクをヘッジするために必要な“外部”の領域が存在しない、「今、ここ」の生活環境こそが全てでありここからの逃げ場など何処にもない、という閉塞した世界意識が、このような発想を生み出す元にあるのではないかと私は想像する。

貧困は 差別へと
怒りは 暴力へと


受け入れるか 立ち止まるか
どこへも逃げだす場所はない
It's A NEW STYLE WAR


浜田省吾「A NEW STYLE WAR」)