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墓標

私の戒名などを刻んだ墓標は、子供達や孫達の代までは何らかの意味を持つかもしれませんが、その後の人達にとっては殆ど意味不明のものになるでしょう。そういうものは残す必要もないし、残したくもないと思っています。子供達や孫達にも、わざわざ墓参りに来てくれるよりは、どこか便利な場所に集まって、今は亡き私のことを肴にして一杯飲んでもらった方が、ずっと嬉しいとも思っています。(その点、遠い岩手県の漠とした里山に埋められてしまったら、もう何がなんだか分からなくなって、子供達も墓参りの心配をしないで済みます。)
勿論、こんな私とは大いに違う考えを持った人達は、たくさんおられることでしょう。その人達は、勿論その人達の信念に基づいてお墓を作られるのが当然であり、どんなに大きなお墓を作られても、私には全く異議はありません。


松本徹三「樹木葬のこと」 ─ アゴラ 2009/11/20

 以前にNHKスペシャルフィンランド特集で、松の木に墓標を刻む「カルシッコ」という習慣が紹介されていたことを思い出しました。

わたしが本書で特に印象に残ったのは、「カルシッコ」と呼ばれる木に刻まれたしるし。
年号、十字架、イニシャル。
死者の思い出を刻む風習。
文字を刻まれた木はそれでも生きるから、徐々に木の生命力〜樹皮に覆われて自然の中に還ってゆくようです。


フィンランド・森の精霊と旅をする (Tree People) ─ 菌類の悪意 2009/10/18

……家々のそばには「守護の木」があり、子どもが生まれるとその子どもの「分身の木」を植える。そして代々その木を守り、後世へ伝えてゆく。また、死んだら「カルシッコ(karsikko)」という、松の木に生年と没年、イニシャルを木に刻み、死者の思い出を木に残す。


フィンランド・森の精霊と旅をする ─ 見知らぬ世界に想いを馳せ 2009/8/2

 墓標が刻まれたばかりの時には特定の木が故人を偲ぶ物理的なよすがとなりますが、やがて世代が変わり故人を直接知る者が次第にこの世を去るにつれて、新しい樹皮が刻まれた墓標を少しずつ覆い隠していきます。そして100年〜200年くらいが経ち、故人を知る者が誰もいなくなる頃には、墓標もまた完全に樹皮の中に姿を消しており、故人を巡る記憶は文字通り“自然に還る”ことになるのです。