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AとBは同じ/違う

 病院の行き帰りにつらつら考えていたことを敷衍してみる。


 二つの物(事)の間の区分けが必ずしも截然としておらず、その間の境界が曖昧であることは、その二つの物(事)が同一であることを必ずしも帰結しない。違いが曖昧であるからと言って、その二つの物(事)は実質的に同一のものであり互いに完全に置換可能である、などということにはならない。逆に、完全な相互置換が不可能であるが故に、二つの物(事)は互いに完全に隔絶した別個の存在であって境界の曖昧さなどありえない、と断じてしまうのもこれまた早計だ。
 しかし、こういったことを論理的に明らかにすることはなかなか難しい。なぜなら、論理の世界は基本的にこうした同一律排中律などが成立するところから話が始まるからだ。あるいは、そのような諸規則が成立している(それ故に万人に対してその妥当性や正当性を問うことが出来る)理念モデルに、何らかの形で立脚するなり参照関係を結ぶなりすることによって、初めて「論理的」と呼ばれるということかもしれない。その上、この理念モデルは特定の事象に対して特定の一モデルだけが唯一適用可能であるとは限らず、観点によって複数のモデルを適用することが可能である場合もある。
 事象Aと事象Bを見比べて、ある人は「AとBは同じだ」といい、別のある人は「AとBは違う」と言ったとする。実際には、この二人はそれぞれ違う観点からAとBの共通性・同一性や差異性を見て取っているのであり、見方によってどちらも成立するという場合がある。ここでそれぞれ逆の見方を採用すると、前者の見方からは「AとBは違う」というのは明らかな誤謬であり、後者の見方からは「AとBは同じだ」というのは明らかな誤謬であるという判断も取り得る。だが、前者の見方と後者の見方のうちどちらを採用すべきかという比較判断の視点は、それぞれの見方の内側からはしばしば得られない。なぜなら、前者は「AとBは同じだ」という判断を可能とする論理によって構築された理念モデルに判断を依拠しており、後者は「AとBは違う」という判断を可能とする論理によって構築された理念モデルに判断を依拠しているのだから、このモデルを各々の判断の前提とする限り、モデルに矛盾する結論をモデルそのものの内側から導出することは出来ないからだ。
 このような、相矛盾する複数の理念モデルの定立可能性を徹底的に敷衍して、価値判断を細分化された諸個人がそれぞれの持つ論理的な理念モデルを互いに並立させ、各々がもっぱら自分の整合的なモデルにのみ判断を依拠したとするならば、「AとBは同じだ」と「AとBは違う」の対立は永遠に調停されることが無いという結論に至る。
 かつてウェーバーが「神々の闘争」と呼んだようなこの理論的可能性は、後に「ポストモダン的」な思考として括られるようにもなるが、こちらは最近では否定的なニュアンスで用いられることが多いようだ。ただこの場合、否定の根拠が別のメタレベルの視点(アーレント的な「政治」視点や言語哲学・コミュニケーション論など)に置かれているのか、あるいは特定の視点(たいていは主張者自身の視点)が比較優位に立つことは“自明”であるという判断に基づいているのか、あるいはそれ以外の何かに基づいているのかは、人によってさまざまである。ある観念に対する否定が、主張の字面が同じであるからと言って必ずしもすべて同一の観点からなされているとは限らない。これもまた、複数の物(事)が見方によって同一であったり異なっていたりすることの現われの一種であろう。