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毎日死んで、毎日生き返る

 私は通勤電車の中でだいたい何かしら本を読んでいる(今は陳舜臣の『中国の歴史』一巻を読んでいるところ)。ありがたいことに今の職場はそんなに多忙なところではないのだが、一日過ごせばそれなりに脳も疲れているようで、帰りの電車の中で本を読んでいるとついウトウトしてしまうことが多い。面白いことに、眠くなってくると次第に活字から意味を読み取るのが困難になってきて、ある一行を何度も何度も読み返しては一生懸命に意味を取ろうとするのだが、なかなか上手く読解できない。何だか昔読んだカントのナントカ批判に匹敵するぞ、この難しさは。
 帰るまでには一回電車を乗り継ぐ必要があるので、歩いて次の電車のホームに行くとそのうちに目も醒めてくる。乗り継ぎ先の電車に乗って、さっきのページを開いて読んでみると、なんだ、えらく平易な文章じゃん。さっきの難儀が嘘のようにすらすら読めてしまう。すっかり拍子抜けである。


 さて、さきほどこんな文章を見かけた。

 「人が死ぬとき、主観的にはどんな具合なのだろうな」と、おれが子供のころからいろいろ考えてきたよしなしごとのひとつのヴァージョンが、よく考えてみると、『順列都市』に似ているのである。
 人が死ぬとき、脳の活動がすべてのレベルで低下してくるだろうから、脳の内部での電気信号のパターンが通常の意識や知的活動に対応するゲシュタルトを取るには、客観的には平時よりも時間がかかるようになるだろう。簡単に言うと、「2×2は?」と“考えて”から「4」が出てくるまでに、時間がかかるようになるはずだ。ならないかもしれないが、これは奇想だから、強引にそういうことにする。しかし、意識そのものが脳の活動なのだから、全体的に活動が鈍っておれば、主観的に感じる時間の流れはいつもと同じなのではあるまいか――という、まあ、実際はどうだかまったくわからないが、こういう奇想を抱いてみたことがあるわけだ。さらに奇想を推し進めてゆくと、ある想念が形成されるに要する時間は“死”の瞬間までどんどん長くなってゆくが、主観的にはやはり時間はいつもと同じように流れていると感じられるのではないか――いや、主観的には“死”の瞬間は永遠にやってこないのではあるまいか、というケッタイな考えが出てくる。


間歇日記/世界Aの始末書 1999/11/22

 ああ、何かものすごくよくわかる話だ。ていうかこれ、私が毎日電車の中で経験しているのと一緒じゃん。「2×2」という活字を何度読み返しても「4」という意味が取れない状態なのである。ということは私は毎日電車の中で、永遠にやってこない“死”の瞬間に向けて限りなく漸近していく状態をシミュレートしていたんだろうか。