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つくるのは誰か

 最寄り駅前の旧い木造住宅が、とうとう取り壊された。痩せた老婆が住んでいるのだけは知っていたが、同じ町内でもないので立ち退き云々に関するうわさ話とかは聞いたことがない。
(略)
 この家が立ち退くことによって誰がどれだけ幸せになり、誰がどれだけ不幸せになるのか。それが明らかになるのはずっと先のことだ。その頃にはもう、責任の所在すら問えぬ状況になっているだろう。今現在、数多くの都市計画が見直しを求められつつ、その変更に苦慮しているように。
 責任を放棄するわけじゃない。けれど今も、自分の中の結論は二十歳の時に吐いた台詞とほぼ変わっていないようだ。

 「まち」を「つくる」ことが許されるのは、そこに住む人だけである。


もらとり庵 2000/12/18

 上記の文脈に沿って表現するなら、 ── ある時点で「まち」を「つくる」人と、数十年後に「誰がどれだけ幸せになり、誰がどれだけ不幸せになるのか」が明らかになった頃に「そこに住む人」とは、必ずしも同一人物ではない ── などといったことを、最近考えることがある。
 大地は常にそこにあるが*1、その上に立つ街は移り変わり続ける。さらに、その街で日々を生きる人々は、街並みよりももっと短いスパンで移り変わっていく。
「まち」を「つくる」ことが許されるのは、“いま”そこに住む人なのか? それとも、「誰がどれだけ幸せになり、誰がどれだけ不幸せになるのか」が明らかになった頃に「そこに住む人」なのか? それとも ── これは現実にたいていの都市計画が無意識のうちに採用している視点だろうが ── 今であると未来であるとを問わず(恐らくは昔であることすら問わず)、同じ知的判断レベルと生活条件の下に置かれれば常に同じような判断を下すであろうと推定された、一般類型・「類的存在」としての人間なのか?


 映画『人狼 JIN-ROH』の中に、消えゆく街を巡る遣り取りがあったことを思い出す。再開発によって街は次々と更新されていく。更地となって次の開発を待つ土地に、昨日はいったいどんな建物が建っていたのか、そこでどんな人の営みが行われていたのかなど、誰も振り返りはしないし、僅かに残ったその記憶もやがては消え去っていく。

 その運命に耐えられないから、人はしばしば永続する何かを求めたがるのだろうか。「類的存在」として継承される人類の永遠のイデアを、街に投影したがるのだろうか。



 ……でもこうなると名作もいろいろと台無しだ!w

*1:超長期的には大地ですら常に“そこ”にあるわけではないのだが、さしあたり今日はそういう大陸移動説的なタイムスパンは取らない。