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継承

 藤原町立立田小学校を訪問。立田小では、地域に生息するホタルをテーマに、年間を通して全校で総合学習を展開している。子どもたちがホタルの幼虫を校内で飼育して、校庭隅に作られた人工川に放流している。18日夜は、小雨模様の中校庭でホタル観察会。渡り廊下にいすを並べて、地元の人たちと我々三重大一行が座る。ホタルボランティアの子どもたちが、紙芝居でホタルの生態を詳しく説明してくれた。その後校庭に移動して、人工川の上をちらほら飛び交うホタルを観察した。子どもたちが親切に質問に答えてくれる。
 19日は、「1999年度ホタルの会」。学校の体育館に地元の人々が集まってくる。6年生によるホタル学習の発表と、全校の子どもたちの合唱。最後は地元の人たちのバンド演奏。20数年前に私が学生サークルの活動で通いつめた京都府北桑田郡美山町芦生分の文化祭を思い出した。「ホタルの会」が終わると、ホタルの飼育・ホタル学習の主導権は最上級生の6年生から5年生へと譲り渡されるという。こうして学校文化が継承されていくのである。


三重大学教育学部 教育課程論研究室 新・研究室日誌4 1999/6/18〜19

 継承される内容への評価とは別に、明示的な制度を経由しながら制度内には必ずしも包含しきれない無形の何物か(それを文化と呼んでもいいでしょう)が継承されていくという現象に、ちょっと興味を覚えることがあります。
 それは“パトリ”の意識の源泉や、個々の実存を定立させる無形の根拠となるかもしれませんし、あるいは本人にそれと気付かれないうちに意識を条件づける内面化された規範として、その人を束縛するかもしれません。
 いずれにせよ、こうした継承は少しずつ積み重なりながら、社会を構成する個々の人間に心の中に永く残り、その時々の外形的・明示的な制度による秩序や目の前のコミュニケーション関係などとは別のレイヤーにおいて、人々の思考や判断や行為を条件づけることがあります。でも、こうしたものはなかなか目には見えないだけに、実証的判断においてはしばしば「存在しないもの」として取り扱われます。この判断の下では、人々の判断や行為に見られる“存在しないはずの”特殊な傾向性はしばしば先天的なものとして解釈されたり、せいぜい個人レベルの性格の相違の内に包含されて片付けられます。