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距離感

 昭和30〜40年代の国会議事録を紹介した記事より。

 ……これらを読んで思うのは、昭和の30年代から40年代というのは、国家が国民の生活、経済活動のすみずみまで手を伸ばしていた時代だということである。
 専売に関しては、たばこの専売、塩の専売などが行われている。当然これは、たばこを生産するたばこ農家、塩田の管理なども国家が行っていたということである。
(略)
 本当に細々としたところまで、国家が目を配り、口を出し、手も入れる時代であったのだ。
 当然、うるさくもあるし、非効率な部分もある。癒着や汚職もあったはずだ。これは、国家が統制する形の経済にはついてまわることでもある。


 そして、この国民生活と国家の政治活動が、統制型の経済という形で結ばれていたことが、55年体制という政治の長期安定につながっていたのではないかと思う。トップがころころ変わって言うことが違ってきては、統制型経済はなりたたない。
 自民党の単独政権は、自民党の政治がどうこうとか、国民の選択がどうこうという問題ではなく、単純にそうしないとうまく機能しない仕組みになっていたのではないか。そんな風にも思えるのである。


 だが、統制経済は結局のところ自由経済に競争力で劣る。
 日本が貧乏であったころ、社会と経済を安定させるために行われていた統制方式は、日本が世界に互する経済規模の国家となった時にその役目を終えた。そして、同時に国民生活と国会議員が直結していた時代も、終わりを迎えたのである。


 明日は総選挙である。どのような結果になるとしても、ここで紹介した議事録にあるような、『古き良き時代』は戻ってこないだろう。
 国民はそこまで政治には頼らないし、政治も国民をここまで管理することはできない。ついでに未来がどうなるかも見えないが――それは四十年前だって、四十年後だって、同じである。


40年前の国会議事録を読んでみる ─ Drupal.cre.jp 2009/8/29

 この時代よりもしばらく後に生まれ育った私は、この頃に国民と国家との間の“距離感”がどうであったのかを、日常的な皮膚感覚として知ることはできません。ただ、かつては今よりも“お上”の権威が強いと同時に、“お上”自体が生活の中で良くも悪くもかなり身近な存在でもあったのではないか、という印象はあります。ある意味でお上の“顔”が見える(同時に“顔”がしばしば非合理的な権威としても機能する)「人治」から、不特定多数を相手とした手続き的合法性によって制御されるシステムへ、社会全体がゆっくりとシフトしていったのでしょう。