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非対称性

 Amebaなうで「フォローしたら相手に気味悪がられた」という話が出ていた。フォローもフォロー外しも自在という感覚からすると確かに奇妙な印象を受けるんだけど、もしかしたらこれって「黙って後をつけまわすストーカー」みたいな印象で相手に受け取られたってことなのかな、ということに気付いた。
 単純に性差に還元するわけにはいかないところもあるんだろうけど、ネット上の若い女性はその属性だけで男がホイホイ寄ってきてヘンなのにもつきまとわれる、みたいなことを当事者として経験した女性なら、そういうネット処世術を身につけていても不思議じゃないような気はする。ネット上に限らず、これからコミュニケーションの回路をつなごうとする意図と、逆にある程度外部(しかも異性)からの働き掛けは充足しているので逆にコミュニケーションの回路を制御・縮減しようとする意図とが、ちょっと食い違ってしまったということではないか、と想像する。
 そして、こないだはてなで流行っていた「獣」の話じゃないけど、ここにはコミュニケーションの場をフラットで「対称的」なものと捉えるか、それとも「非対称的」なものと捉えるか、という認識の差が働いているんじゃないかと思う。自分にとって不利な形での力関係の非対称性を場の中に認識し、一見場がフラットであることの利益よりも、その内に隠れている構造としての非対称性から被る不利益のほうをより重大な関心事として捉えている人は、その非対称的な力の侵入に対する防護壁を場に求めることもあるだろう。

 だいぶ前、たぶんはてな内のどこかだったと思うんだけど、同性愛者の男性が面白いことを書いていた。自分が同性愛者であるということを知らない同性(男性)と話しているうちに、話の流れで自分が同性愛者だということが相手に知れると、とたんに相手の言動や態度に警戒したりするような構えが強く働き始めるのだそうだ。別に同性愛者だって相手くらい選ぶし、別にその会話の相手をどうこうしようなんて気はまったくないのに、なんで「相手に襲われる」という方向にもっぱら想像力を働かせるんだろう、などということをその人は語っていた。
 自分は必ずしも“強力な”立場にいない、自分よりも強力な力の侵入を許すかもしれない、という非対称性の脅威の認識(錯覚)の発生によって初めて、男性に対して警戒心を先行させる女性に似た心理が、その男性の中にも働き始めたというわけだ。なかなか興味深い例ではないだろうか。