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根拠のない祭り

 その昔、考え方が今よりもずっととんがっていた頃には、クリスチャンでもないのにクリスマスを祝ってお祭り騒ぎをするという世間の気分に、強い違和感を覚えていたこともあった。自分の中に祝うべき根拠を何も持っていないのに、とりあえずお祭りをする日だからみんなで祭りをしよう、ということに釈然としない思いを抱いていた。
 その後、いつ頃からかはもう覚えてないけれど何となく考え方が変わって、とりあえず気分的に祝いたいから祝う、祭りたいから祭るというのも、それはそれでアリなんだろうな、と思えるようになった。昔あった何とか音頭じゃないけれど、酒を飲むための理由なんて何だっていい、別に理由が無くたって構わないのだ。
 全ての物事には何らかの根拠がある、根拠がないのは考えていないからであってそれはきちんと根拠を追求し発見すべきなのだ、という発想も、時と場合によっては、外在的な根拠に依らなければ何も行為できないという自分自身の無力さを正当化するための“根拠づけ”に過ぎないのかもしれない、と思うようになった。

 そこで最終結論になったというわけではなく、根拠なき祭りをただ「祭りたいんだからそれでいいじゃん」として是認することに対する疑念が別の形で盛り返してきたり、いろいろと考え方がふらついたまま今日まで至ってはいるのだけれど、さしあたりのところは、明示的な根拠が無い行為がただ根拠(理由・目的など)を持たないというだけの理由で否定されるべきだとは言えないということ、そして根拠を持たない(ように見える)行為についての判断は単純で斉一的な判断基準に依らず個別に行われる必要が生じうること、などといったところが、「根拠なき祭り」に対する私の現時点での基本認識だろうか。