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だけど僕にはピアノがない 君に聴かせる腕もない


 この話題を見た時に私が感じたのは、決して開花予想終了に反対しているわけではないし、むしろまったく構わないとも思っているにも関わらず、なんとなくもやもやしたような感覚だ。でも、これを“他人に理解できるように”表現するにはどういう文章にまとめたらいいんだろうと考えていたら、すっかり思考が行き詰ってしまった。

 民間のサービスが充実してきたところに行政機関が存在し続ける必要はないというのは、特に昨今ではものすごく正論だし、単純にサービスの提供と受益という観点で言えば誰も反対しないだろう。他にももっと喫緊の案件を抱えていそうな行政の(あるいは気象庁の)仕事の中で、桜の開花予想なんてのは、たぶんものすごく「どうでもいい」仕事だろうし、ただでさえ財政難がいろいろ言われている昨今では、こういう「どうでもいい」ことを維持することは例えコストがかかっていなくてもそれだけで非難の的にもなりかねないから、判断としては妥当だろうと思う。
 でも、そういう必要性や効率性の基準によって、「桜の見ごろはいついつですよ」なんていう、経済生活上の必要性には全く関係のない、必要性の観点から言えばむしろ無駄と言ってもいい、割と“のんびり”した業務が消え去っていくということに、私は判断の妥当性認識とはまったく異なったところで、もやもやしてしまうのだ。何となく季節の変わり目を知るというだけの、ある意味では無駄そのものといってもいい「どうでもいい」ことが維持できないということに対して、何だか変な喪失感を覚えてしまう。

 でも、このもやもや感を「妥当な認識」として他人に指し示すことは、たぶん私には出来ない。無駄な業務を継続することのメリットやベネフィットを明示的に表現する能力など、私は持ち合わせていない。たぶん明示的なメリットなど最初からないのだろう。
 もやもやはもやもやのまま、誰にも伝えることができずに、いつまでも心に残り続ける。