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自己イメージとしての人生

 この辺の話題。


「少々の台風でもビクともしない都市インフラ」を求めるのと同じような心性が、こちらでは完全ゼロリスクな食品を求める。どちらも相手にある種の“完全性”を求め、消費者たる自分は完全な商品やサービスが与えられるのが当たり前だと思っている。
 これを非難するのは簡単だし、俺自身も「消費者主権」の概念が何だか相手の無限責任(こちらはいつぞやどこかで話題になったような倫理上の“応答責任”なんて生易しいものじゃなくて、個別の法的な責任の意味だ)を追求する根拠となりつつあるような状況には、何かヤバい傾向を感じなくもない。


 だがその一方で、そのヤバい状況と言うのは果たして、もっぱら消費者団体が自らのイニシアチブにおいて世界に提起した、環境からの影響を全く受けない、まったく消費者団体の人たちの自律的な自由意志にのみ帰せられるものなのだろうか。といってもこれは法的云々の話ではない。
 かいつまんで言えば、生産者にリスク抹消を強硬に求める心性は、他のところにリスクの低減の手段を求めることができない、自分たちにはここ以外に他に頼るべきところがないという、一種の無力感や焦燥感の裏返しなのではないかということだ。はっきりと自覚的に理解しているケースは少ないだろうけど、自分たちの生存と生活がいまや完全に産業システムの上に乗っかっており、そのレールを外れたら明日の生存すら覚束ないという、自分たちの生の条件に関する漠然とした了解があるからこそ、前提的に“信頼するしかない”産業システムのレール自体に歪みがあった場合には、自分たちのあずかり知らないところで生存の前提が崩れることになるので、余計に「オンドゥルルラギッタンディスカー!!*1」と激昂してしまう。自分のあずかり知らないところで自分の運命が左右されてしまうことに対する、一種の不条理感みたいなものかな。そんな不条理に納得できない人は、何とかして認知的不協和を解消すべく、「よかった、そんな危ない物質はなかったんだ」と解釈したり、あるいは前提を崩した者を攻撃しまくって、自分たちの判断の正当性を再確認しようとする。


 こういった心理の背景には、ふだん意識の表面には上らせないけれど背景的な了解として心に宿っている、自己認識にまつわる“本来性の神話”のようなものがあるんじゃないかと思う。本来なら自分はこういう人間のはずだ、本来なら自分の人生はこうなるはずだ……なのにそうならなかった、「ウゾダドンドコドーン!!*2」 ── といったような感じで、生起した現象によって未来予測を裏切られた感覚が生じた時に、意識に不協和のモヤモヤが発生して落ち着かなくなり、なんとかこの不協和状態を解消しようとする心理的インセンティブが働き始めるのだろう。
 この“本来の姿”を「自己イメージ」と言い換えても構わないが、ここでの「自己イメージ」は鏡に映した時の容姿やファッションなどといった外面的なものに留まらず、性格特性についての自己認識やものの考え方などといった内面的要因、そして自分の人生はこのように推移するだろうという“未来予想図”のようなものまでを含んだ、自分の生にまつわる諸々を全部ひっくるめた人生の全体像としてのイメージであり、それ故に漠然として言語化・概念化しにくいビジョンをも多く含んでいる。


 不協和の解消法はいろいろあるが、自己イメージと生起した現象との齟齬が不協和の発生原因となっているので、これを因果的に遡ったところで、どちらか一方を改変してもう一方に合わせようとする(または両方とも変えてどこかの地点で一致させる)というのが基本形となるだろう。つまり、自己イメージを改変して生起した現象と齟齬をきたさない新たな自己イメージを形成するか、あるいは生起した現象(厳密には自分の認識における現象の現れやその解釈)を改変することで自己イメージと齟齬をきたさないような形で現象を認識(解釈)するか、といった形になる。
 変り種の方法としては、これもまた自己イメージの改変の一種に当たるのだろうが、不協和を不協和のまま残しつつ、その上に「そのような不協和を受容できる自分」という新たな自己イメージを形成するというものがある。以前に、開高健が島地勝彦との対談記事の中で「編集者心得十ヶ条」みたいなものを言い出していて、その中の一つに「トラブルを歓迎しろ」というのがあったのを見たことがある。トラブルをいかに解決するかという視点とは別に、そのようなトラブルの発生(自分の行動の将来予期とは異なった形で現実の事象がが発生すること=不協和の発生)そのものを受容できるような自己であれ、という戒めがちょっと面白かったので、何となくここだけ記憶していた。


 最初の話に戻すと、商品にゼロリスクを求める消費者心理は、恐らく本来あるべき自己イメージ(の一環たる人生像・“未来予想図”)として、「いっさいの瑕疵のない安全な食品によって健康が常に保たれている状態」を想定しているのだろう。そこへ「発がん性物質」という現象が生起したことにより、想定されていた本来的な自己の人生像との間に不協和が生じて不快感を覚えたため、再び調和した世界認識を回復するために、現象の側に対してゼロリスクの商品を要求するという、現象を改変する行為判断を行ったということになる。
 こう書くと「なんだ、ただのワガママか」と取られがちかもしれないが、消費者運動の前史として、商品瑕疵を巡って消費者が不利益を被った場合に企業と消費者との間の力関係によってしばしば消費者が泣き寝入りを強いられ、消費者は安全に過ごせる人生のイメージを改変して「こういうことが起きたら諦めるしかない自分」という新たな自己イメージを形成することで不協和を“解決”するしかなかったという事情を、考え合わせておく必要はあるだろう。


 ともあれ、よく訓練された科学の人ならこのような不協和解決法に対して、「リスクがゼロ? デタラメヲイウナ!*3」と言い放つことになるだろうし、それはそれで決して間違ってはいないんだけど、それって受け取る側が「世の中に理不尽は付き物なんだから、たとえ何かあっても黙って耐えろ」というメッセージに解する可能性もあるんじゃないかとは思うんだよね。職業的に係わっている人以外のいったい誰が食品添加物のMSDSをいちいち引っ張り出して検証する? 個々がリスクを見積もろうにも、その見積もりを行うために必要な知識知見の事前蓄積や観察実験検証の手段および方法論などといったものの準備は、そこらの主婦(主夫でもいいけど)一人一人の手に負えるものではない。既に積み上がっている知識や技術の巨大な蓄積とその複合体の上に立って、その存在を前提とすることで初めて大多数の市民の生活が回っているのに、「その前提を当てにするな、前提が覆されてもそれは自己責任で耐えろ」なんて言われたら、「そりゃねーよ」という気分になるのもわからなくはないと思うし、例えそういう人が合理的な諸々に嫌気がさしてスピリチュアルな諸々にはまったとしても、俺はあんまり非難する気になれんのよね。「非合理な信仰に頼ることは許さん、条理を通せ、でも不条理があったらそれは自己責任な」なんて、俺的にはちょっと言いづらいしな。

*1:「本当に裏切ったんですか!」

*2:「嘘だそんなことー!」

*3:「でたらめを言うな!」