「人生ほど重いパンチはない」
メモ。『ロッキー・ザ・ファイナル』を中心とした、映画『ロッキー』シリーズ全般についての論評より。
……実は「ロッキー」シリーズとは、厳密には「ロッキー」の続編というよりリメイクに近い。毎回毎回無限のリフレインを続けることで、ここまでやって来たシリーズなのだ。
(略)
……今回の「ザ・ファイナル」を見始めたあたりでのことだ。
エイドリアンの死、失われた栄光、息子も去って行った。華々しいのはすべて過去ばかり。ロッキーも見るからに老け込んで、人生思うようにはいっていない。
例えば「5」で見せたような、頂点から一気に転落…みたいなドラマチック性は全くないが、ここでのロッキーはやっぱり鬱屈とした毎日を送っている。そして過去ばかり見ている。毎日食うや食わずという訳ではない。屈辱に耐えている訳でもない。そこそこに生活を送っているが、あの往年を考えてみれば寂しい限り。そんなこの映画の前半部分を見ているうち、僕はハタと膝を叩いたのだった。
この感じは、僕も身に覚えがある。
ピークを過ぎてしまった。気が付いたら人生前半戦が終了していた。巻き返せると思っていたら、もはや時間切れが迫っていた。自分にそんな時がやって来たと気づいた時ほど、人間寂しい気持ちになることはない。それは誰にでもやって来るものだ。
でも、それは人生真っ逆さまよりずっとリアリティがあるし、実はずっと重いことなのだ。
むしろジワッとこたえてくるという点で、顔に受けるパンチよりもむしろズッシリ重たいボディへの一撃に近い。後々になって効いてくる。劇中でもロッキーが言っている通り「人生ほど重いパンチはない」のだ。
そして画面には、メイクでは作れない老けをクッキリと刻印したスタローンがいる。それを一目すれば、実は「重いパンチ」を受けて来たのは他ならぬスタローン自身であることも分かる。この段階で「ロッキー=スタローン=観客」…は一気に一括りになる。だから共感の度合いが今までと全然違う。
(略)
つまり「ロッキー」は内面的にも外見的にも、スタローンの成長記録のようなシリーズとなっていたのだ。