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悪者探し

 業務プロセス等の中で何か問題の発生が認識された時に、その問題の解決や今後の防止策について議論が行われたとする。
 このような種類の議論で時折、話が「悪者探し」に終始してしまうことがある。


 問題の解決や今後の予防を考える上で、問題の発生原因を捉えることは重要なことだ。そして、発生原因が人間の故意や過失・錯誤行為といったヒューマンエラーにあると考えられる場合には、誰がどこでどのように問題を発生させてしまったのかを討議者が共有認識として持つことも、また必要なことである。その原因を確定することで、解決策や予防策を考えるに当たってプロセスのどこをどうリカバリーしたり改善したらいいのかの目途も立てられる。

 ところが、ここで原因の認識がもっぱら属人的なレベルで捉えられるとどうなるか。
「Aさんがこのようなオペレートをしたから問題が発生した」
という原因認識において、ある特定のオペレートに認識の焦点を当てるか、それともそのようなオペレートを行ったAさん個人に認識の焦点を当てるかの違いによって、その後の話の流れはかなり変わってくるのではないかと思う。
 オペレートに焦点が当てられた場合、問題系は「Aさんのオペレートが問題なのだ」(太字にアクセントを置いて読もう)と解釈されるので、そのオペレートを行なった者がAさんであれBさんであれCさんであれ、もし同一の条件に置かれれば誰もがAさんと同じように問題の原因となり得る可能性がある、という考え方が成立する。
 一方Aさん個人に焦点が当てられた場合には、問題系が「Aさんのオペレートが問題なのだ」(太字にアクセントを置いて読もう)と解釈されるので、BさんやCさんが持ち合わせていない、他ならぬAさん個人の属人的な要因こそが問題の原因なのだ、という方向に話が向きがちとなる。


 討議者におけるこういった傾向性が原因未確定の時点で既に存在していると、原因探求に際して、オペレート重視型の視点は「問題を発生させたのはどのオペレート/プロセスか」に注目し、属人型の視点は「問題を発生させたのは誰か」に注目する。両者は多くの場合重なり合っているが、どちらに強勢が置かれているかというニュアンスの違いが、その後の方向性の違いを決定付けてしまうことがある。
 そして、プロセスの問題解決や改善における属人的な「悪者探し」の視点が陥りがちな最大の陥穽は、「誰に責任があるのか」を確定してAさん個人の責任を追及することで話が終わってしまい、プロセス自体に内在する問題には目が向けられずに「Aさんがちゃんとすれば問題は起こらない」または「Aさんを別の人に代えれば問題は起こらない」などといった結論が出される可能性があることだろう。そいつが悪いんだからそいつを罰すればいい、それ以上のことは俺には関係ない話だ、といったような感じだろうか。


 ちなみにこうした属人的判断は、業務プロセスだけの話ではなく、もっと広い社会全般や歴史を捉える時にも時折見られる。原因となる個人を確定するのはいいとしても、それが「で、結局誰が悪いの?」という“最終的な”問いに対する答えとして与えられた時には、そこで話が終わってしまう。ヒトラースターリン個人をロールプレイングゲームやアニメや特撮ヒーロー番組の“ラスボス”と同じような扱いで捉えてしまって、そこに至る歴史的な経緯や環境的な要因を考えずに話を済ませることが適当であるかどうか。