qad

イルミネーション

 今日はだいぶ失礼なことを平然と書いてしまおう。

 この季節になると、結構あちこちのイルミネーションを見に行ったりする。別に全国行脚するわけじゃないけど。
(写真は一昨年くらいにどこかで撮ったもの。どこだっけ)


 イルミネーションと言ってもいろいろあるけれど、私は個人的に、一般家庭が自宅の玄関先や庭やマンションのベランダなどに思い思いに飾り付けているイルミネーションを見るのが結構好きだったりする。
 ただ、私の好きなポイントというのは「個性的」とか「手作り感」みたいなところにあるわけではない。実際に自宅にイルミネーションを飾っている人が見たら気を悪くするかもしれないのであまり大声では言えないのだが、私は個人宅のイルミネーションに感じるフェイク感と言うかキッチュ感と言うか、まあそういったものに何故かやたらと惹かれてしまうのだ。
 もともとこうしたイルミネーションは主に商業施設や公共に開かれた空間などで、“客寄せ”目的に飾られることが多いと思う。そして個人宅のイルミネーションも、古来からのマツリ*1を継承したというより、直接的にはこうした商業目的のアトラクションを参照していると考えていいだろう。
 つまり一般家庭のイルミネーションは、こうした商業的なスタイルの祭りを家庭内イベントとして完全に内在化させているわけで、しかも商業施設ほど大規模かつ本格的に作り上げているところはなかなかないので、そうした本格的な商業アトラクションに比べたらどうしても“しょぼい”印象になってしまう(失礼)。どんなに頑張っても、一般家庭レベルのイルミネーションはキッチュなものにならざるを得ない。
 でも、私はこの“しょぼさ”が非常に心に引っかかってしまうのだ。何というか、不況やらなんやらで世相はいろいろ大変だけど、その中で消費社会の祝祭を一生懸命謳歌しようとしているかのような生活実践の現われに、
「確かにキッチュかもしれないが、お前はそれを否定できるのか? 巨大な社会に比べたら一人一人の人生はちっぽけなものかもしれないけれど、どこぞのモールのイルミネーションに比べたら遥かにちっぽけなこの光を嗤う資格が、お前にあるのか?」
とでもいったような反省的契機を突き付けられているような気がして、言わば一回りした崇高さのようなものを感じてしまうのだ。

*1:日本でもクリスマスに盛り上がる習慣は(都市部の一部だろうが)第二次大戦以前からあったというし、もう伝統の民間習俗扱いしても問題ないだろう。